『すべてを尽くして主を愛する』
説教箇所 マタイの福音書26章6〜13節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師
今日は、イエス様が王の王としてエルサレムに入城されたことを記念してパームサンディといいます。当時の社会では華やかな時は馬を用いました。馬は強く、早く、馬に乗ると高くなるからです。エルサレム入城の時のイエス様は人気絶頂でしたが、ロバの子に乗られ誰よりも低くなられました。ロバにつく呼称は「愚鈍なロバ」です。しかし、ロバは忠実で勤勉です。イエス様はエルサレム入城という十字架のストーリーの始めに、忠実で勤勉なロバを選ばれました。イスラエルで観光用のロバは綺麗にしていますが、荷物運び用のロバは朝から晩まで働いていて汚れています。ロバは普段、鞍をあててもらうことはありません。しかし、イエス様をお乗せするため上等な上着をかけてもらいました。また、イエス様をお乗せした時、人々は道に棕櫚(しゅろ)の枝や上着を敷きその上をロバは歩きました。これは、ロバにとって絶対ありえない祝福です。私たちもイエス様をお乗せして歩く時、本来ありえない祝福を受けます。
イエス様はツァラアト(らい病)の癒されたシモンの家に行かれました。当時、ツァラアトは汚れた病とみなされ差別があったのでシモンは孤独だったと思います。しかし、イエス様はシモンの家に行き彼の家に人々を集めました。彼はイエス様によりツァラアトが癒されただけでなく、社会復帰することができました。イエス様は病だけでなくその人の人生も癒し回復してくださるお方です。それでは、今日の中心の説教に入っていきます。シモンの家に集まっていた時、一人の女の人がイエス様の頭に香油を注がれました。これは、ナルドの香油といって、とても高価な香油です。当時のイスラエルでは、結婚の備えとして純粋で高価なナルドの香油を買って壺に入れてためていました。そして、結婚する時、壺にためたナルドの香油を持っていったり、ナルドの香油をお金に変えて持っていきました。
この時、女の人がイエス様に注いだ香油は、マルコの福音書によると300デナリ相当の香油であったことがわかります。300デナリは1年間分の労働者の賃金と書いてあります。しかし、生活費が要るので1年分の給料を1年で蓄えることはできません。そのため、彼女がイエス様に注いだ香油は彼女の今までの人生を表します。また、結婚する時、持っていくための香油なのでこれからの人生も表します。つまり、彼女がイエス様に香油を注いだことは彼女の今まで、今、将来の人生の全てをイエス様に注いだことを意味します。
これをみた弟子たちは、香油を売って貧しい人たちに施しをすべきだったと憤慨しました。確かに、旧約時代、施しは大切な信仰の行為でした。また、とても高価な香油ですが、時間が経てば香油の香りは消えてしまうので、弟子たちの目には無駄だと思えました。しかし、イエス様はこの女の人は立派なことをしてくれたと言われました。さらに、イエス様はご自身が十字架にかかることを意識され埋葬の用意をしてくれたといいました。そして、福音(十字架と復活)が宣べ伝えられるところではどこでもこの女の人がしたことが語られると言われました。
この女の人はイエス様が十字架にかかることはおそらく知らなかったでしょう。しかし、イエス様を愛していたので損得なく自分の全てをイエス様に注ぎました。それが愛することです。愛することは損得を超えます。この女の人は計算していませんでしたが、この人がしたことは歴史上最も素晴らしい十字架のあがないの道備えになりました。この女の人は主を愛していただけでなく、自分が本当に主に赦され愛されていることを知っていました。だから、誰かの強制ではなく、頑張ってではなく自分から喜んでささげました。人は本当に神様の愛を知る時、喜んで応えたくなります。神様に愛されていることがよくわからない方はぜひ祈られてください。必ず、あなたにわかるように主の愛を示してくだだいます。
私たちも主を愛し過去、今、将来を主に注ぎだしていく時、それは最高の祝福となります。ある場合は経済、時間、能力かもしれません。イエス様は命をかけてすべてをかけて私たちを愛されました。聞き従うことはとても大切ですが、主を愛することを土台に置く時、私たちの聞き従いは確かになります。実をつける聞き従いになります。「心をつくし、力をつくし、知恵をつくし、思いをつくし主を愛することに勝ることはない」とイエス様が言われたので主を愛し主にささげることは祝福です。
(文責 久保田望)
主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2012年4月1日 主日第2礼拝メッセージ