『死に打ち勝ち復活された主〜イースター礼拝

          説教箇所 Tコリント人への手紙1520~28節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師

「しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。」(20)

ここにあるように聖書はこの地上の生涯を終えた人を、死んだとは言わずに、眠った者と言います。私たちが地上の生涯を終えたとき、この体は火葬場に行き、焼かれて骨だけになります。ショックを覚える事かもしれません。しかし、この地上の肉体は朽ちてよいのです。なぜならば、この地上の肉体を持って天国には行けないからです。この肉体は罪がある肉体で、朽ちる体だからです。しかし、イエス様を信じた人は、御霊の体をいただき、天国に行き、復活の体、朽ちない体をいただくからです。携挙の時には一瞬のうちに御霊の体に変えられます。そうして天国に引き上げられるのです。それゆえ、聖書は眠っていると言っているのです。

 

「というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。」(21)

イエス・キリストは私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかり死んでくださいました。金曜日に十字架にかかり、日曜日の朝に復活されました。一番初めにイエス・キリストが死に打ち勝ってよみがえられました。

人は神様によって形づくられた時、非常に良いものでした。しかし、アダムが神様に背いた結果、人に罪が入りました。その結果、死が与えられました。罪の結果が死なのです。人はだれ一人として、罪のない人はいません。子どもであっても例外なく、罪の種を持っています。その罪は必ず罰を伴います。その果てが死ですが、呪いや、場合によれば罪の結果による病があります。しかし、それらすべての罰も呪いも病をも、すべてを引き受けて十字架にかかり死んでくださったのです。

イエス様はまったく罪はありませんでした。それゆえ死ぬ必要はありませんでした。そのイエス様が、私たちの罪の身代わりとなられました。十字架とは格好の良いものではありません。最も汚く、醜いものでした。すべての苦しみと呪いと病を負われたからです。イエス様は十字架の上にかかられる時、苦みを混ぜたぶどう酒は受け取られませんでしたが、酸いぶどう酒は受けられました。苦みを混ぜたぶどう酒は麻酔の効果があり、酸いぶどう酒は痛みを増す効果があったからです。イエス様は本当に死にました。父なる神様に捨てられ、死なれたのです。しかし、3日目によみがえられました。死に打ち勝たれたのです。これが復活です。だから、それを信じる私たちも、本来罪人であるはずなのに、罪のない者として見ていただき、さらに死にさえ打ち勝つ事が出来るのです。そして究極的には天国に行くことができ、この地上でも死に打ち勝ったものとして、歩むことが出来るのです。

ある方は自分の問題は死よりも大きいと言いますが、それは偽りです。死よりも大きな問題はありません。しかし、その死に打ち勝ったイエス様が私たちと共におられます。ともすれば、他にどのような問題があったとしても、イエス様が解決できないはずはありません。

 

 私達の人生には限りがあります。永遠のいのちを受けたとき、私たちの人生はほんの一瞬だったと知るでしょう。だからこそ、地上に生きている今を、永遠に価値あることのために生きていただきたいと思います。

 死に打ち勝ち、復活された主が共におられます。その主に従って歩んでいきましょう。

(文責 松本俊也)

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2012
48日 主日第2礼拝メッセージ