『信仰〜用いる時祝福を見る』
説教箇所 Tコリント人へ手紙13章13節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師
・「こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているものは愛です」
信仰と希望と愛・・・この3つを比べるなら「愛」が一番優れていると言っています。しかし、この3つはあいまって働くのですが、土台は信仰です。神様の愛の究極は十字架で示された愛です。イエス様は十字架を通して私達に愛を示して下さいます。でも、信仰があると確かにあの十字架は私達への愛だと解るのですが、信仰がなければ2000年前のイエス様の十字架が、なぜ今生きる私に関係が あるのか解らないのです。だから、信じていない方は、「関係ないじゃないか」と言います。信仰がないからです。愛を知る為にも、信仰が土台に必要です。「神様の愛が良く解らない」と言う人が時々いますが、これは愛が解らないのではなく、信仰が無いという事です。信仰にポイントがあります。信仰を通して私達は神様を愛しているのです。
また、ここで言う愛は、人間的な感情的な愛ではなく、 アガペーの愛です。アガペーの愛とはギリシャ語ですが、イエス様の完全な愛という事です。無代価の愛・犠牲的な愛は瞬間的には出来たり、ある期間はすることができる事はあるかもしれませんが、それを継続的にする事は人間には不可能
です。だから、聖霊によってと書いているのです。
人 は問題の中に解決を見出そうとします。例えば、癌であれば放射線治療に解決を求め、生きる可能性が無いと言われれば絶望します。 しかし、神様を信じている人は神の言葉の中に希望があることを知っています。どんな大きな問題があっても、神様の言葉に希望があります。人生においても正しい希望、神様が与えて下さるビジョンがあります。それを持つ人は変わります。聖書の中にも「幻の無い民は滅びる」とあります。神様が与えるビジョンを持っている人は、輝き生きるのです。
試練や困難があっても、ビジョンを持っている人は喜んで生きる・・・例外なくどの人にも、神様が下さるビジョンと目的があります。それが希望です。希望の土台に「信仰」があるのです。具体的に信仰とは信じるとはどういう事か・・・ヤコブ書に「行いの無い信仰はむなしい」と書いています。私達は信仰を通して神様を知り、信仰を通して神様の愛を知ります。信仰とは神様を愛する事です。それは「当たり前」です。しかし、解っているようで解らない…日本の教会では信仰についてあまり語られないからです。
・信仰とは
@「悔い改める。」日本人は自分を責める傾向があります。悔いて悔いて自分をどんどん責めてしまうのです。 しかし、悔いる事はしますが、悔い改める事をしていません。悔い改めるとは、神様の前に自分の罪を告白して赦しを受け取るのです。そして、必要なときは人にもきちんと謝るのです。
A「感謝する。」どんな事でも感謝するのです。良い事も悪い事も、自分のせいで悪くなった事柄、 失敗も悔い改め感謝します。人の結果で自分に悪い事が起きても感謝するのです。それは、神様が許された事だからで、感謝する時必ず祝福に変わるからです。 これが信仰を用いるという事です。
B「祈り求める」悔い改め、神様が働いてくださるよう求め祈るのです。遠慮せず、もっと大胆に祈り求めましょう。
C「神の言葉に聞き従う」一見逆だと思えるような事柄が許されても、信仰を
用い大胆に神様の言葉に従うのです。又、従えるよう祈り求めるのです。
D「告白する」受けたと信じて告白するのです。
信仰を用いると、神様のわざがおこり、奇跡が起きます。神様にえこひいきはありません。どの人にも、神様は同じように働かれます。同じようにわざを成して下さいます。私達が本当に神様に感謝し、求め、従い、告白して、信仰を表して行く時、神様は必ず生きて働かれ、その中で神様の
愛を意識としてではなく、本当に神様は私を愛してくださっている事を知り、神様が希望を与えてくださいます。共に、信仰を用い神様のすばらしい業に期待してまいりましょう。
(文責 山本美津子)
主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2012年4月22日 主日第2礼拝メッセージ