『イエス様の愛』
説教箇所 Tコリント人へ手紙13章13節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師
今日は、十字架の愛について学んでいきます。イエス様は私たち一人一人を愛しておられます。聖書には神様の愛が書かれています。人間の愛は自分にとって益となるところ、好ましいところを愛します。それは愛することの出発点になりますが、聖書に書かれている神様の愛とは根本的に違います。神様の愛は無代価の愛です。それがイエス様の十字架の姿に現れています。
イエス様は神である方なのに人となってくださいました。聖霊によって処女マリヤの胎にやどり生まれました。全く人が通るところと同じところを通られました。時間を造られた方が時間の中に入って来られ、どこにでも同時に存在できる遍在なる方が限定された世界に来られました。しかも、神様なので罪がありませんでした。人間はアダムが罪を犯して以来、罪をもって生まれます。しかし、イエス様は罪がないので罪を犯したことが一度もありません。イエス様は神様だから私たちと同じ肉の体をもつ必要はありませんでしたが、あえて私たちと同じところを通られました。それは、私たちの痛み、苦しみを知るためです。イエス様が十字架に架かられた直接的な原因はパリサイ人たちのねたみですが、私たちを救うためであったことを覚えてください。
イエス様が十字架に架かられた時、左右に2人の強盗がつけられました。普通十字架に架かる時、1週間から10日で亡くなりますが、イエス様は十字架に架かられてわずか6時間で亡くなられました。これはイエス様が前の日徹夜で、39度も鞭で打たれ背中が破れ血だらけになり、さんざん嘲弄されていて心も体も最悪の状態だったからです。しかし、体も心も苦痛を受けたのにイエス様は一言も言い返しませんでした。しかも、麻酔の役割をする苦味のぶどう酒を受け取られませんでした。つまり、イエス様は苦しみをしっかり引き受けられ苦しみの極みを通られました。それは、私たちがもう苦しまなくていいようです。罪の裁きや呪いや罰を受けなくていいようにです。
十字架の上でイエス様は赦しの祈りをされました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからないのです。」キリストは私たちの身代わりとなって十字架に架かり黄泉にまで下られました。そして、父なる神様と私たちを和解させてくださいました。だから、私たちは十字架がある限り神様といつでもつながっています。イエス様の両側で十字架に架けられた強盗の1人は、他の人と同じようにイエス様を嘲りました。ところが、もう一人の強盗は、イエス様が十字架の上で人々を赦し、愛する姿を見て、イエス様は本物の愛なる方、真実な方だとわかりました。そして、悔い改めました。「あなたが御国の位にお着きになる時には、私のことを思い出してください」と言いました。どんなに嘲られても一言も言い返さなかったイエス様が、この人が思いだしてほしいといった瞬間、イエス様は、「今日あなたはパラダイスにいます」と言われました。「今日」は原語に忠実に訳すと、「今」と訳すことができます。イエス様がそう言った瞬間、最も苦しみの場所である十字架の上が天国に変わりました。一番最高の祝福はイエス様が一緒にいることです。彼の内にイエス様がきてくださいました。神様が共にいることに勝る祝福はありません。
本当の愛はすぐにわかりません。イエス様が十字架に架かった時、それが自分のためだとわかっている人は誰もいませんでした。誰一人イエス様の十字架のことをわかっていなかったのに、イエス様は十字架から降りて来られませんでした。イエス様は十字架で自分の命を捨て私たちを救ってくださいました。そのとき、一人の強盗が救われました。イエス様でさえ、2人のうち1人しか理解してもられませんでした。私たちも主を愛し従う時、理解されないことがあります。しかし、その十字架を正しく担う時、必ずキリストの愛に気づき救われる人が起こされます。
(文責 久保田望)
主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2012年4月29日 主日第2礼拝メッセージ