『十字架で示されたイエス様の愛』
説教箇所 ヨハネの福音書19章23~30節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師
・愛はすぐにわからない
イエス・キリストは私たちの罪のために、十字架にかかってくださいました。それは究極の愛です。しかしこの時、その意味を知っているものは誰一人もいませんでした。ローマ兵たちに至っては、イエス様を十字架にかけた後は、その下着を分け合っていました。つまり無関心だったのです。
私たちがイエス様のことを伝えようと、精一杯の愛を示したとき、どうかわかってほしいと考えると思いますが、イエス様自身がその愛を示された時でさえ、誰も関心を寄せるものはいなかったのです。しかし、イエス様が十字架につけられた後、その業を見た百人隊長とローマ兵のいくつかの者たちは、「この方はまことに神の子であった。」と言いました。無視していた彼らの中にも、イエス様が示された愛に気づいた者たちがいたのです。
私たちがイエス様の愛を伝えていくとき、その愛をすぐに受け入れてもらえるかというと、そうではありません。それでも私たちが神様に従って、人々に伝え続けていく時に、その愛を受け入れ、救われる人が必ずいます。
イエス様の両隣に2人の悪人が十字架にかけられていました。ひとりはイエス様をなじりましたが、ひとりは救われました。そのように、イエス様の愛を受け取る人がいるのです。
・イエス様の愛と思いやり、与えられた神の家族
イエス様の十字架のそばには、4人の女たちがいました。その中にはイエス様の母親であるマリヤもいました。イエス様は神です。その神であるイエス様が人となって地上に来られた時、このマリヤを通して地上にお生まれになられました。選ばれたマリヤは、やはり特別な器であり、聖霊によって身ごもると語られた時に、それを受け取った彼女の信仰は非常にすばらしいものです。しかし、人となったイエス様の母であり、神の母となったのではありません。これは重要な真理です。
イエス様が十字架にかけられた時、母マリヤの心はまさに剣で刺し通されたほどの痛みだったでしょう。その中で、イエス様は十字架の上からマリヤに目を留められ、声をかけられました。「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」(26節) なんと深い愛でしょうか。マリヤにすれば、何の罪も犯していない自分の息子が目の前で十字架にかけられていることは、心が引き裂かれる思いだったでしょう。そのマリヤにまず声をかけてくださったのです。そして、ヨハネに「そこに、あなたの母がいます。」(27節)と言い、マリヤを引き取らせました。
人は自分が大変なときや苦しい時に、他人のことに心を配ることは難しいものです。しかし、イエス様は十字架の上で、苦しみの極みの中で、マリヤとヨハネ、弟子たちを思いやり、愛を示されました。そして、十字架を中心として、新しい神の家族を作られました。新しい神の家族、それは教会です。教会とは、十字架を中心にした神の家族です。そこは神様の愛が溢れ、罪や欠けを知っても、助け合い、赦し合う事が出来るところです。
・すべての者の代価はすでに払われた
イエス様は十字架の上で「わたしは渇く。」(28節)と言われました。これは肉体的な渇きがあるでしょう。全身から血を流されたからです。さらにローマ兵たちはヒソプの枝に酸いぶどう酒をつけて、イエス様に飲ませました。乾いた体に酸いぶどう酒を受ければ、それは大きな苦痛となります。それでも受けられたのは、苦しみの極みにまでいくためです。また、この渇きとは霊的な渇きでしょう。つまり人々の救いに対する渇きです。
イエス様は言われました。「完了した。」(30節)と。私達の罪の贖いは、このイエス様の十字架によって、すでに完了し、その代価は支払われたのです。私たちがそれを本当に知っているならば、もっと大胆に、イエス様に求めるはずです。当然、罪は悔い改めなければなりません。しかし、悔い改めたならば赦されているのです。
十字架で罪を赦され、贖われたものとして、イエス様の愛を受けつつ、人々にも伝えて歩みましょう。
(文責 松本俊也)
主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2012年5月20日 主日第2礼拝メッセージ