『神様の前で心を低くする』
第Uサムエル記 6章12〜15節 メッセンジャー 松本俊也牧師
ダビデとイスラエルの民はアマレク人との長い戦いの末、神様に聞き従うことによって勝利を得て、イスラエルに、勝利の凱旋をしていました。その時ダビデが一つの提案をします。それは神の箱を持ち帰ろうということでした。この神の箱というのは、神様の臨在を現すものでした、ダビデは神様の臨在をダビデの町に持ち帰ろうと思ったのです。しかしその途中で事件が起こります。ウザという人が神の箱に手を伸ばしてふれてしまいました、牛が神の箱をひっくり返しそうになったからです。するとウザに神の怒りが燃え上ってウザは死んでしまいました。なぜウザは罰せられなければならなっかたのでしょうか。それは神様がそれほどまでに清く、聖であられ、義であられるからです。
でわなぜ、今私達人間が神様に礼拝を捧げ祈ること交わることができるのでしょうか。それはイエスキリストの十字架のあがないによって、本来罪を持っている私達人間が清いものとされて、神様と交わることができるのです。聖書の中に私達と神様との間を仲介してくださるのは、イエスキリストだけと書かれています。私達はイエスキリストの御名によって祈ることができ、イエスキリストの十字架によって罪ゆるされ神の子の特権を与えられています。
ダビデは神の箱を自分の町に持ち帰ることを恐れました、そしてダビデはイスラエルに凱旋する途中、ガデ人オベデ・エドムという人の家に神の箱を回して様子を見ることにしました。神の箱は三ヶ月間オベデ・エドムの家に留まり、オベデ・エドムと彼の全家は祝福されました。私達も神様の臨在の中に留まるということは、祝福されるための一つのポイントです。教会とは神様が満ちておられる所です、私達は教会にいるだけで祝福を受けることができます。そしてもう一つのポイントがあります、それは賛美です。私達が賛美をするとき、そこに神様がおられます。賛美をすることによっても祝福が注がれてくるのです。私達もそれぞれ遣わされている職場、地域、家庭、学校があります、その場所で賛美を捧げ感謝をする時、そこには神様の臨在が現れます、祝福が注がれてくるのです。
ダビデはガデ人オベデ・エドムとその全家が祝福されたことを聞くと、もう一度ダビデの町に神の箱を運びこもうとします。ダビデは神の箱が六歩進んだとき牛をいけにえに捧げます。とても慎重になって運びこみました。ダビデは神様の前で力の限り踊りました。イスラエルの全家も歓声をあげ、角笛を鳴らして迎えました。そしてイスラエルの町に神の箱が入りました。
ところが一人だけミカルという人は、その様子を窓から見下ろしていました、神様の前で喜び踊るダビデを心の中で蔑んでいました。このミカルという人はダビデの奥さんです。ミカルはこのことによって受けるべき祝福を受けれなかったのです。ミカルには子供ができませんでした。旧約時代における子供は大きな祝福でした。その子供が彼女にはできなかったのです。ミカルは心の中でダビデを蔑んでいました彼女の心は高かったのです。
私達の心が高いとき、私達は神様を賛美すること選ぶことができなくなります。ダビデは王様で本来権威もあり尊敬されるひとです、そのダビデも裸になって踊りました、人の目にはおろかに見えてもダビデは神様の前で踊ったのです。ダビデの心は神様の前で低かったのです。皆さんもダビデのようになるように、人には蔑まれるかもしれません。愚かに見えるかもしれません。でも神様の前では心を低くして力の限り喜び踊って、心から賛美しましょうそれが祝福のポイントであり、神様が望んでおられることです。
(文責 井上 愛記 )
主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2010年3月28日 主日第2礼拝メッセージより