『イエス様のもとに持って行く』
聖書箇所 ヨハネの福音書6章1〜4節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師
・心を主に向けるために
「夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが」(ヨハネの福音書13章2節)とあるように、悪魔は私たちの心を攻撃してきます。心は様々な思いをもちます。多くの人は、そのすべてを自分の思いであると考えますが、実際には神様からくる思いや悪魔による思いがあるのです。
時に神様が与えられる思いと私たちの思いがひとつになることがあります。それは祝福へ繋がります。思いは重要カギとなるのです。聖書は心や思いを守りなさいと、度々教えています。なぜなら、私たちの思いや心が戦場になるからです。
日本の社会の中には、神様の土台がありません。神様の思いと似たヒューマニズムはあったとしても、根本的に違うものです。では、どうすれば、神様の思いと私たちの思いをひとつにすることが出来るのでしょうか。それは、神様にふれる事です。神様のことばである聖書を通して、神様が満ちておられる教会に来る事を通して、私たちの思いは、神様の思いとひとつになって行くことが出来るのです。
・5.000人の給食の奇跡 イエス様のもとに持って行く
この奇蹟は4つの福音書に書かれている有名な奇蹟です。男だけで5.000人、女性、子どもを含めれば数万人いたと言われるその時に、すべての人が十分食べて満腹になりました。では、その奇蹟はどこから始まったのでしょうか。
このころ、大勢の人々がイエス様の周りにいました。イエス様が多くのいやしや奇蹟を現しておられたからです。その人々を見たイエス様はピリポに言われました。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」そう問われたピリポはイエス様に言いました。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」彼が出した答えは、ある意味では妥当な答えでした。確かにたったそれだけのパンでは足りないからです。
実は、私たちも同じような事をしばしば言っています。「お金が足りない」「能力が足りない」「時間が足りない」あれが足りない、これが足りないと言っています。計算して、無理だと言っています。事実、それは足りないのでしょう。恐らく、ピリポのように賢い答えなのかもしれません。しかし、その賢さが、時に私たちの信仰を妨げるのです。
一方アンデレは違う返答をしました。「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」彼は「それが何になりましょう。」とは言いはしたものの、たった5つのパンと、2匹の魚をイエス様のもとに持ってきたのです。「これではどうしようもない」と言いはしたものの、イエス様に持って来たのです。これがピリポとは決定的に違う答えでした。アンデレは信仰に満ちてイエス様のもとに持って来たのではありませんが、そのわずかなパンと魚を差し出した時、奇蹟を体験したのです。
神様のもとに、わずかなものでも持ってくる人は、神様の奇蹟を体験します。私達がたったこれだけだと思っても、神様のもとへ持ってくる人は、そこから神様の奇蹟を見ることが出来るのです。
・イエス様に差し出した時に奇蹟が始まる
イエス様のもとに持って来た時、イエス様は「すわらせなさい」と言われました。ピリポが足りませんと言っていた時は、イエス様は何もなさいませんでしたが、そのわずかなものを見た時、すぐに食事の準備をさせられたのです。そして、そのわずかなものを用いて、奇蹟を現されたのです。
私たちも、今もっているわずかなものを、イエス様に差し出しましょう。そのわずかなものを、たったこれだけとはイエス様は言われません。そのわずかなものを用いてイエス様は奇蹟を現してくださるのです。
(文責 松本俊也)
主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2012年12月9日 主日第2礼拝メッセージ