『強いられた十字架』
聖書箇所 ルカの福音書23章36節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師
イエス様は十字架にかかる前、鞭で打たれ、前日は徹夜でした。
イエス様は荒削りの十字架を背負いカルバリの丘に向かっていました。
イエス様は苦しみの極みに達していたので、道中倒れられました。
イエス様が十字架を背負えなくなった時、カルバリの丘までイエス様の代わりに十字架を背負った人が、
クレネ人シモンです。
シモンの目の前でイエス様が倒れられた時、ローマ兵は十字架を背負うようにシモンに指示しました。
当時、ローマ兵は絶対的権威を持っており逆らうことは死を意味するのでシモンは逆らうことができませんでした。
これはシモンにとって強いられた十字架でした。
ですが、実はこの十字架はシモンにとって祝福そのものでした。
この時、十字架を引き受けなかったらおそらくシモンはイエス様と関わることがなかったし救われなかったでしょう。
イエス様が十字架にかかる道を歩む途中、誰よりもイエス様の近くにいたのがシモンです。
弟子たちでもなく、イエス様を慕っていたガリラヤの女性たちでもなく、クレネ人シモンがイエス様のそばにいたのです。
イエス様の後ろから温かいものが流れてきてシモンは神様の愛を感じたことでしょう。
イエス様が十字架にかかる姿を見たシモンは救われました。
そして、シモンの家族も救われクリスチャンホームになりました。
なぜなら、ローマ人への手紙16章でシモンの息子ルポスのことを「主にあって選ばれた人ルポスによろしく」とパウロが言っているからです。
また、シモンの奥さんは自分の母とパウロに言われるくらいパウロに慕われる人になりました。
シモンが十字架を引き受けた時、シモンだけでなく彼の家族も救われ、あのパウロから慕われるクリスチャンホームになりました。
私たちの人生にも強いられた十字架が許される時があります。
クレネ人シモンのようにその十字架を引き受けることは祝福です。
そこでしか体験できない神様の深い愛、神様の恵み、永遠の命に至る祝福があるからです。
(文責 久保田望)
主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2013年2月3日 主日第2礼拝メッセージ