『ゲッセマネの祈りから見る祈りの力』

              聖書箇所 ルカの福音書223946節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師

 イエス様は十字架にかかられる前夜、ゲッセマネという場所で祈られました。イエス様が「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と言われたように、苦しみの極みである十字架にかけられた時に、決して人を責めたりすることはなく、人々に希望と祝福のことばを与えられました。

イエス様を十字架につけた人たちは、罵倒して言いました。「他人は救ったが、自分は救えない。」時として、非難の中には真実があります。なぜイエス様は自分を救えなかったのか。それは、イエス様が自分を救ってしまえば、私たちに救いを与えることが出来なかったからです。なぜそのようなことが出来たのか。それは、イエス様は十字架の上ではなく、その前のゲッセマネの祈りの中で、すでに戦って、勝利を取っておられたからです。

 

・祈りの習慣

イエス様は明らかに、祈ることを目的にゲッセマネに来られました。イエス様がゲッセマネに行かれた時の事を、聖書はこう書いています。「それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。いつもの場所に着いたとき」(3940節)ここから分かることは、イエス様にとって、祈りが習慣化されていることです。翌日の十字架を前にして特別に祈りにいったのではなく、習慣化された祈りをする為にオリーブ山に行ったのです。

同じように私たちも、一日のうちに「この時間はこの場所で祈る」という時間を持つことは重要です。たとえ初めは短い時間であったとしても、時間と場所を決めて、祈ることを習慣として身につけていくことが大切なのです。病気などの例外は除いて、寝床で祈ることは祈りとは言えませんが、その場所と時間に祈りに行った上で眠ってしたとしても、それは祈りです。どんなに聖書を知識として知っていても、祈りを知らなければ神様のことを良く知りません。神様を体験しないからです。まずは、祈ることを習慣化していきましょう。

 

1時間の祈り

祈ることを決意し、祈り始めた途端、このようなことが必ずと言っていいほど起こります。掃除を普段しない人が掃除をしようと思ったり、連絡をまったく取っていなかった人に電話してみようと思ってしまうのです。

イエス様がゲッセマネで祈られた時、弟子たちもついて行きました。しかし、イエス様は彼らにこのように言われました。「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」(46)祈っていた時に、誘惑がやってくるのです。

11時間、祈りの時間を取ることは難しいことかもしれません。しかし、1時間の祈りの時間を取り始めると、私たちのクリスチャン生活は一変します。神様を体験するからです。

 

・神様の御心を行うために

 神様は私たちが願う祈りを聞いてくださいますが、神様の御心とぶつかることも少なからずあります。しかし、イエス様でさえも、ゲッセマネで「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」と祈られたように、祈るときに、神様の御心を行う力が与えられるのです。

 

祈りを知っているクリスチャンは、神様を知っています。その人は神様を体験します。祈りは私たちのクリスチャン生活を変えるのです。どんな困難や問題があっても、祈りを知っているクリスチャンはそれを越えていけるのです。1時間の祈りを身につけ、神様の祝福をもっとたくさん見ていきましょう。

(文責 松本俊也)

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長教会

2013年4月14日 主日第2礼拝メッセージより