『キリストを伝える喜びと祝福の存在』
説教箇所 ピリピ人への手紙1章12〜25節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師
・キリストを伝える喜び
「すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。」(18節)
愛によって純真な動機から福音をのべ伝えることが最も好しいことですが、牢に入れられているパウロの心を痛めるように、党派心や勢力争いによって、福音がのべ伝えたとしても、キリストがのべ伝えられていることをパウロは喜んでいました。
私たちも喜びの動機は色々あります。好きなものを食べたり、得たりすると、喜びがわいてきます。しかし、それが喜びの中心ではないのです。パウロにとっての喜びが、キリストをのべ伝えることであるように、私たちも、キリストをのべ伝える事が喜びであることが、中心なのです。
私たちの内に聖霊様がおられます。それゆえ、キリストを証しし、福音を伝える時、喜びが与えられるのです。
「さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。」(12〜14節)
パウロはこの時捕えられて、牢に入れられていました。一見するとマイナスの状況に思えることでしたが、彼は捕まえられて牢に入れられたことは、福音を伝える機会だと言いました。彼は捕まえられている間、ローマの親衛隊の全員や他のすべての人々に福音を伝えることが出来たからです。
私たちの人生には、マイナスと思えることがあります。「どうしてこんなことが起きるの?」そう言ってしまうような事があるのです。しかし、そのことも神様計画の一部であるのです。だからクリスチャンは、いつも喜んでいることが出来るのです。
・他の人々への祝福の存在
「私はこのことを確信していますから、あなたがたの信仰の進歩と喜びとのために、私が生きながらえて、あなたがたすべてといっしょにいるようになることを知っています。」(25節)
パウロは天国に対する確信がありました。彼にとっては例え死刑宣告を受けたとしても、天国に行けるので、それはこの上もない喜びでありました。しかし、彼はピリピの人々にとっては、自分が生かされていることが喜びであると言いました。
もし、私たちが自分のことだけ考えるなら、天国に行くことの方が絶対に良いことです。しかし、私たちは生かされています。私たちクリスチャンが生きているのは、他の人にとって喜びを与える存在だからです。それはパウロだけではなく、私たち自身がそうなのです。
イエス様は人々を祝福してくださる方です。私たちの存在を通して、祝福を多くの人に与えてくださるのです。
(文責 松本俊也)
主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2013年12月8日 主日第2礼拝メッセージ