『苦しみという喜び』  

              聖書箇所 ピリピ人への手紙 12730節 メッセンジャー イザヤ木原真
 27節に「キリストの福音にふさわしく生活しなさい。」とありますが、そう聞くと多くは、品行方正などきちんとした生活を思いがちですし、それを語ります。そう考えると、律法的になってしまいます。確かによい生活は大事ですが、あくまでもそれは結果です。心が変わるから当然、態度や言葉が変わってくるというものです。しかし、キリスト教信仰の中心はそこではありません。中心は、27・28節のそのあとにある、「あなたがたは霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘しており、また、どんなことがあっても、反対者たちに驚かされることはないと。」とあります。つまり、霊と心をひとつにして、福音宣教のため、あるいは福音や信仰のために戦っているということなのです。特に、神さまを愛して歩んでいると、クリスチャンが少なく偶像礼拝が気づかないほど染み込んでいるこの国では、戦いやぶつかりがあります。戦いがあるのは、不信仰だからではなく、従っているからです。戦いが厳しい人は、イエスさまを証し、分かち合っているからです。むしろ、戦いがない人の方が危険です。

 よく「教会の一致」とか言われていますが、ひとつになってから、宣教したりするのではなく、その逆です。宣教や、「イエスさまを証する」という明確な目的をもつと、教会がひとつになっていくのです。「ひとつになってから宣教しよう」としても、できませんし、人間はひとつにはなれません。でも、「この喜びや解決や祝福を、ひとりでも多くの人に知ってほしい」と思って賛美したり証ししたりして、はっきり同じ目的をもって教会がひとつになるとき、いろんな戦いはあれど、向かって進んでいく中で、ぶつかりあいながらひとつにされていき、強くなるのです。

 教会はユニークで、ひとりひとり個性が豊かで、違いがあります。逆に、みな同じようになって、みな同じ祈りかたをして、みな同じ服を着るのでは、それは教会ではなくカルトです。

 29節に、「あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜ったのです。」とあります。普通、苦しみは受けたくありません。しかし、あなたの愛する人や大事な人が苦しんで傷んでいたら、少しでも余裕があるなら「ほんの少しでも自分が代わってあげたい」、あるいは「共有したい」と思うように、人間はなっているのです。そう思わないのは、本当の愛ではありません。本当に神さまの愛を受けたら、イエスさまを愛せずにはいられなくなり、そうすると苦しみもくるのです。でも、それは祝福です。なぜなら、助けたときに喜びを感じるからです。イエスさまが苦しみをプレゼントするということは、イエスさまがあなたを大人として認め扱っているのです。苦しみを引き受けることは、実は、愛する人にとって最大の恵みです。苦しみを共有せずに、本物の愛には出会えません。共有して、はじめてひとつになれますし、本当の愛が起こるのです。

苦しみを賜るのは、大事なことです。そして、今年は「喜びなさい」です。でも、その苦しみのプレゼントをなぜ喜べるのかというと、イエスさまが「もう大丈夫。あなたなら、その苦しみがあっても、いっしょに担ってくれる。」と認めてくださっているからです。働き人として認められているからです。主とともに戦えるからです。そうすると、その喜びの向こう側に、実がつきますし、神さまの逆転のわざがあらわされます。

(文責 石田 雅則)

 

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長教会

2013年12月15日 主日第2礼拝メッセージより