『神様が与えるビジョンに向かって歩む』
説教箇所 ピリピ人への手紙3章13〜18節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師
・過去の自分に捕らわれない
「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み」(13節)
ピリピ人への手紙はパウロが書いた手紙です。ここでパウロは「うしろのものを忘れ」と言っています。キリストに出会うまでの自分を忘れたと言ったのです。それまでの彼は、努力してきた人間でした。それはキリストを迫害したほどです。優秀で家柄もよく、立場もあり、多くのものを勝ち取った人でした。わかりやすく言うならばエリートだったのです。ところが、彼はイエス様に出会ったことに比べて、それらの事はむなしいと言ったのです。ここで彼が言った「むなしい」とは「無駄であった」という意味ではありません。神様はパウロが回心した後に、それまで彼が歩んできた人生をも用いてくださったからです。
ユダヤ人は生まれて8日目に割礼を行います。それは生粋のユダヤ人を意味します。さらにベニヤミン族であって優秀な民族としての誇りをもち、律法を厳格に守りました。このように彼が誇りとしていたもの、得だと思っていたものを「ちりあくた」、すなわち損と思うようになったのです。それは彼がイエス様に出会って得た、義、喜び、希望、イエス様と共に歩む素晴らしさとは、どんなものとも比べることは出来ないからです。
私たちは過去の何かに捕われてしまうことがあります。それが成功であっても失敗であっても、何かに捕われているのです。その結果、前に進めなくなってしまいます。過去に捕らわれないで、前に進んで行くことが出来ると人は自由になります。
パウロと同じように、私たちもイエス様に出会って、それまでと違う価値観、それまでとは違う生き方を得たと思います。なぜならイエス様は、私達を永遠に価値あるもののために生かしてくださるからです。
・神にあるビジョン(幻)を持つ
「キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」(14節)
地上の事に捕われていると、クリスチャンであっても前に進めなくなることがあります。それは神にあるビジョンを失ってしまった時です。私たちはビジョンがある時、本当に輝いて活き活きと輝いて生きて行けるのです。
クリスチャンは神にあるビジョンを持つことが出来ます。そのビジョンを持って神様に従って歩む人は、数々の神様の奇蹟を見るようになるのです。
・今あるところから出発する
「それはそれとして、私たちはすでに達しているところを基準として、進むべきです。」(16節)
神様が与えてくださるビジョンは高く大きなものです。時にそのビジョンを見た時に無理だと思う人がいます。またはその高みまでジャンプしようとする人がいます。神様はそうは教えておられません。神様は今あるとろを基準とするように教えているのです。そうすると、ある時に突然引き上げられるのです。
今あるところから、神様に従って歩みだし踏み出すのです。神様は私たちの人生に、計画を持っています。私たちの人生に奇蹟を用意しておられます。神様が与えてくださるビジョンをいただいて今あるところから歩んで行きましょう。
(文責 松本俊也)
主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2014年1月12日 主日第2礼拝メッセージ