『十字架を負う歩み』

                 聖書箇所 ルカの福音書 92325節    メッセンジャー 松本俊也牧師

 

・すべてのクリスチャンへの十字架
ここで注意して見ておきたいのが、「みなの者に言われた。」(23節)です。「これは弟子たちに言われたこと」と思いがちですが、そうではなく、すべての人々に言われたのです。
十字架と言われると私たちは、「重い」「堅苦しい」「大変そうだ」というイメージを浮かべてしまいます。
しかし、そのイメージで言われたのではなく、実は、神さまが私たちに勧めてくださっている、最善の道だからです。

・正しく理解するポイント
みことばを正しく理解し、正しく紐解く(ひもとく)には、聖書は「律法で(文字だけで)読む」のではなく、「信仰によってとらえる」ことがポイントです。神さまがなぜ「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。」と言われたのかというと、それは私たちを苦しめるためでもなく、縛り付けるためでもありません。信仰の歩みの中に入れ、神の祝福を与えようとしておられるからなのです。

・神さまを第一にする

ただしポイントがあって、「自分を捨て、日々自分の十字架を負い」とあります。
「自分を捨て」とは、自分を第一にせず、「神さまを第一(優先)とする」ということです。
次の「十字架を負い」とは、私たちひとりひとりに、負うべき十字架があって、「それを負いなさい」ということです。この歩みは、律法主義ではなく、信仰に立たなければできません。信仰をもって受け止めていくと、神さまは私たちに「神さまを第一にして生きる力」を与えてくださいます。律法ではなく信仰が重要です。

・直接的に交わることができる
神さまは、至聖所の幕を破られ、イエス・キリストを神の御子(みこ)と信じる私たちひとりひとりに、神さまと交わる特権を与えてくださったのです。それを用いていくと、十字架を負う歩みが、スムーズにできることが分かってきます。信仰に立ち、祈り聞き従うことは、最高の人生です。

・神さまの約束がある
24−25節には「自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。」とあります。神さまを第一にして人生を歩むとき、神さまの祝福が流れてきます。そして私たちには、祝福を受けることができるという、神さまの約束があるのです。


教会は、神さまの祝福に満ちているところです。
その、教会の頭(かしら)であるイエス・キリストは、私たちを祝福に導いてくださる、復活の神さまです。
ぜひ、この神さまに向かって信仰を働かせて歩み、ともにその祝福を受けていきましょう。

(文責 石田 雅則)

 

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会

2014420日 主日第2礼拝メッセージ