『すべてに勝る十字架を知って歩む』
聖書箇所 Tコリント人への手紙2章2節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師
・知識に満ち社会的エリートでもあったパウロ
コリントという地は、商業的に盛んな地域で、経済的に発展した町でした。しかしそこには、多くの偶像礼拝が蔓延(はびこ)っていました。そこにたてられたのが、コリントの教会でした。コリントの教会には、カリスマの働きをはじめ、多くの神様の祝福を受けていたのと同時に、いくつもの問題を抱えていました。分派、近親相姦、信者間の訴訟、偶像にささげた肉、女性のかぶり物、貧しい聖徒に対する献金の問題など、幾多(いくた)の問題があったのです。
そのコリントに対してパウロが書いたのが、この『コリント人への手紙』なのです。パウロはこの手紙の中で、幾多の問題に対する答えを書いていますが、その手紙の最初に記したのが、このみことばでした。「なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。」(Tコリント人への手紙2章2節)このことばをパウロが最初に書いたのは、「いくつもの問題が起こっており、それに対しての答えを書くけれども、その問題を根本的に解決するのは、イエス・キリストの十字架であり、イエス・キリストの十字架にこそ解決と勝利がある。」ということを述べたのです。
パウロは、他の弟子たちとは違う面がありました。弟子たちは無学な者たちでした。それは「正式に学んだことの無い」という意味です。事実、それほど知識があるわけではありませんでした。ところがパウロに至っては、サンヘドリンの議員であり、宗教的エリート、政治的エリートでした。今風に言うならば、家柄、社会的などの超エリートだったのです。そのパウロが、「イエス・キリストの十字架以外のものは知らない」と言ったのです。
ピリピの手紙では、「イエス・キリストを知ったことにより、すべての事をちりあくたに思う。」と述べています。彼は、それまでのすべての知識も経験も、「イエス様の前では意味のないもの」と言ったのです。
イエス・キリストに答えと解決があるのです。そのことをクリスチャンであれば知識としては理解していると思います。しかし、それを体験し、もっと深く知って実感していただきたいと思います。
霊的な問題も、実際的な問題も、解決はイエス・キリストの十字架にあるのです。
・十字架につけられた方
日本人の宗教観は、「山の上に神がいる」というものです。「キリスト教でも、イスラム教、仏教、ヒンズー教であっても、どこから登っても頂上にいるのは真の神だから何でも良い」というものです。「人が努力して神に近付く」という宗教観なのです。でも、これは『神』ではなく『神々』と呼ばれる、人が作った『偶像の神』です。
しかし、私たちの『真の神様』は、その山の遥か上におられ、その山さえも創造された神です。私たちがどんなに頑張っても届くことなど出来ない方のです。それゆえ、神様の方が私たちに近付いてくださいました。イエス・キリストという、神の一人子を、十字架につけられのです。
神であった方が、処女マリヤの胎を通じで、人と同じように生まれ、この地上を生きられたのです。そして、私たちの罪やのろい、裁きを引き受けて、十字架にかかり黄泉にまでくだられたのです。それゆえ、私たちが十字架を信じ、悔い改めるなら、すべての罪が赦されるのです。
罪が赦されたら、ゼロになるだけではありません。キリストは十字架にかかりよみがえられた後、復活されました。死に打ち勝ち、罪やのろい、病に勝利をとられたのです。ゼロになるどころか、圧倒的な神の勝利を見るのです。
神様のみことばを知っていることと、そのみことばに生きることとは違う事です。みことばを体験し、生きて行きましょう。みことばに立って、祈り、感謝して歩む人は、神様の祝福をさらに見て行く事になるのです。
(文責 松本俊也)
主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2014年7月6日 主日第2礼拝メッセージ