『神のわざが現れるため』
聖書箇所 ヨハネの福音書9章1〜8節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師
イエス様は、目的地に向かう途中で、生まれつき盲人の男の人に目を留められました。
イエス様が泥をその人の目に塗り、シロアムの池に行って洗うように言われ、「その通りにすると目が見える
ようになる」という奇蹟が現されました。
・イエス様の愛
この人は、生まれつきずっと目が見えなかったので、孤独で、絶望の中にいました。
しかし、イエスさまは目的地に行く途中に立ち止まり、この人に愛のある言葉をかけてくださいました。
あなたが人生の中で、この盲人のようにあきらめてしまうような問題に直面するとき、イエス様は道の途中でも心を向け、目を向けてくださる、愛のお方です。
・神さまの素晴らしさをあらわす
また、イエス様があなたに促しを与えて、あなたを通して他の人に触れようとしていることがあります。
「あなたを通して、いやしたい、助けたい。」と願っている人々がいます。
聖霊さまが促しているときがあります。
その促しを大切にしてください。
踏み出すときに、神さまが働いてくださいます。
イエス様の弟子たちは、その盲人の目の前で「この人の目が見えないのは、この人が罪を犯したのが原因か、この人の両親が罪を犯したのが原因か」を聞きました。当時の社会では、肉体的ハンディーをもっている場合、「罪の報いを受けた」という考え方が一般的だったからです。
しかしイエス様は、「この人が罪を犯したのでも、両親が罪を犯したのでもない。」と言われました。
その病は、「神がどんなにこの人のことを愛しているか、神がどんなに素晴らしい方かを、この人が知る
ための祝福である。」と言われました。
みなさんの人生でも一見、マイナスと思えるようなことが許されるときがあります。
しかしそれはマイナスではなく、神の素晴らしい愛を体験するための祝福です。
・自らの意志と選択で
確かに、イエス様が手をたたけば、確かに瞬時にこの盲人の目はいやされました。
しかし、そこであえて目に泥を塗り、盲人なのに「シロアムの池に行け」と言われたのです。
「そうすれば治る」とは言われていませんが、「この方がなさることは、何か意味がある」「きっと見える」と
信じ、奇蹟を期待し、従ったのです。
そして、転んでも石につまずいても、あざけられても、この盲人はシロアムの池に行って洗ったという、その選択と意志、そして信頼とチャレンジが、ここにあるのです。
受動的にではなく、主体的に、自分から、自分の気持ちで、期待して信頼して歩むとき、その奥に神さまが用意されている、さまざまな祝福を見ます。
(文責 久保田望)
主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2014年10月 5日 主日第2礼拝メッセージ