『奇蹟の前に許されたラザロの死』

             聖書箇所 ヨハネの福音書1144節  メッセンジャー イザヤ木原真牧師

・イエス様を愛していたのに病気になったラザロ

 ベタニヤという場所にマルタとマリヤとラザロという兄妹がいました。マリヤはイエス様の足に香油を塗って、髪で洗った人で、その生涯をイエス様に捧げるほど、イエス様をこよなく愛していた人です。ラザロもまた「あなたが愛しておられる者が病気です。」と書かれているほどですので、イエス様を愛し、イエス様も彼らを愛しておられました。

一般的に考えるなら、このようにマルタもマリヤもラザロもイエス様を愛していて、イエス様も彼らを愛しておられるのなら、ラザロは病気になることよりも、健康であるべきだと考えます。祝福と恵みの神様であるのなら、愛するラザロが死んでしまうような病気になることを、なぜ許されるのか理解できないと思います。同様に、イエス様を信じていない人はよく「神様がいるなら、なんでこんなことが起こるんだ。」と言ってきます。

私たちの人生の中にも、同じようなことが起こることがあります。神様のことをこんなに愛しているのに、「なぜ?どうして?」と思うようなことが許されることがあるのです。しかし、その最悪と思えるほどの状況こそが、祝福の始まりであるのです。結果的にラザロはこの病で死んでしまいました。しかし、神様の計画はその先にありました。4日たった後にイエス様が来られて、彼は生き返りました。それが、どれほど彼らにとって祝福となり、彼らの信仰を強めたのか分かりません。

基本的に神様は私たちを祝福をもって導いてくださいます。しかし、時として、このようにあえて困難と思えるような道を許されることがあるのです。その時、私たちの理解を超えた、驚くほど大きな祝福が用意されているのです。

・あえて留まられたイエス様

マリヤはすぐにイエス様に来ていただこうと、遣いを出しました。ところがです。イエス様はすぐに来てくださいませんでした。それどころか、まだ生きているラザロに対して「この病気は死んで終わるものではない。」と、彼が死ぬと言われただけですぐには動かれませんでした。イエス様はあえて留まったのです。結局、イエス様が来てくださったのは、彼が死んで4日後でした。しかも、3キロほどの道のりを、時間をかけて行かれました。到着されたイエス様にマリヤは「イエス様がここに来てくださったら、ラザロはいやされた」とひれ伏して言いました。イエス様さえいてくだされば治ると、健全で素晴らしい信仰を持っていました。その彼らを待たされたのです。

私たちの人生にも、どんなに健全な信仰があっても、それをあえて待たされる時があるのです。この時、神様の御心はラザロの病をいやすことではありませんでした。御心は、よみがえらせることにあったのです。

死んで1日だけだったら、まだイエス様ならいやされると思ったかもしれません。しかし、4日というのは、ラザロの肉体が臭くなっているのです。まったく発想も考えも出来ないほどの状況の中から、神様は栄光を現わされたのです。

・石をとりのける

ラザロの墓は洞穴となっていました。墓の前に来られたイエス様は「その石をとりのけなさい。」と言われました。マルタたちは「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」と答えました。その時、イエス様は言われたのです。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」と。ここで言う「信じる」とは、石を取りのけることです。この時、石を取りのける人が必要でした。信じる人が必要だったのです。無論、イエス様であれば、ご自身の力で難なく石を取りのけることはできました。しかし、彼らに石をとりのけさせたのです。彼らはラザロが復活するとは思わなかったでしょうし、発想もしなかったでしょう。「もう腐っているのに石をとりのけて何になるの?」と思ったかもしれません。しかし、神様のことばの通りに、石を取りのけたのです。その時、奇蹟が起こりました。

私たちの人生の中で、「なぜ?」「どうして?」と思えるようなことが許された時、信仰を持って歩む人は、そこに自分では考えも出来ないほどの、素晴らしい神様の祝福と栄光をみます。

石をとりのけてください。神様の奇蹟が、私たちの人生に始まるのです。

(文責 松本俊也)

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会

20141012日 主日第2礼拝メッセージ