『教会のとりなしと奇蹟』
聖書箇所 使徒の働き12章1〜17節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師
まず、十二使徒の中で、ヤコブが最初に殺され、殉教しました(2節)。すると、ユダヤ人がそれを見て気に入り、喜び、それでヘロデ王はユダヤ人の機嫌・人気を取ろうと、ペテロもとらえて殺そうとしたのです。そして牢に入れ、四人一組の兵士四組に監視させていました。
そこで、教会はペテロのために熱心に祈っていたのです(5節)。ペテロは、二本の鎖に手足をつながれ、厳重な見張りの兵士二人の間で寝ていて、しかも戸口には別の番兵たちが牢を監視していたのです。自分ではどうすることも、状況を変えることも、何をすることもできない状況に置かれていたのです。
皆さんがこのペテロのように、どうすることもできない状況に追い込まれることもあると思います。
今の時代、目に見えないかせにつながれていることが、幼稚園児から老人までとても多いのです。
そこで教会は、彼のために熱心に祈ります。祈りは、最後の手段ではなく、神の奇跡の手を動かす一番の近道です。クリスチャンライフには「すると突然」があります。ひとりで戦わないでください。御体(みからだ)である教会とともに戦ってください。すると、神さまが働いてくださいます。
7節では御使いがペテロのもとに現れ、勝手に切れるはずのない頑丈な鎖が、御使いを通して神の超自然の力によって切れたのです。教会の祈りがあったからです。神さまの愛、聖霊の力は、頑丈な鎖さえも断ち切るのです。神さまにとっては、いとも簡単なことです。その神さまに祈りましょう。
8節では御使いが丁寧に細かく、ペテロを導きます。しかしペテロは、幻を見ていると思っていたのです。
つまり、見張りを通り抜け、開かないはずの鉄の門が開くという、あり得ないことが起こっていたのです。
10節で御使いはペテロを、第一・第二の衛所、町に通じる鉄の門を通し、外に出てある通りまで導き、それから離れました。そして11節でペテロは我に返り、それが幻ではなく、現実だと気付いたのです。そして12節でペテロは、ヨハネの母マリヤの家に向かいます。「そこで祈られている!」と分かったのです。祈られていると、祈りがバックにあることがはっきり分かります。
13節でロダという女中が応対に出て、14節でロダがペテロの声に気づくと、門を開けもせずに奥へ駆け込み、ペテロが戻ってきたことを知らせます。しかしそうすると彼らは、「あなたは気が狂っているのだ。」と言ったのです。真剣に、熱心に祈っていたにもかかわらず、起こったことが信じられなかったのです。しかし16節で、彼らは本当だと知り、非常に驚きます。驚くほどのことを祈っていたのです。絶対に無理だと分かっていながらも、神に向かって心を合わせ、熱心に、不可能に向かって祈っていたのです。
祈っていたこと自体を、神さまは信仰と見て下さって、天使を遣わして、超自然の力を現わされたのです。驚くような祈りの答えを、神さまは、教会が祈ると与えてくれるのです。
21世紀の今、同じことが、今、起こります。神さまは、あの時も今も、何も変わっていません。あの時と同じように私たちを愛し、今も同じように生きて働かれているのです。この神に向かって私たちが教会で、不可能に思えても心を合わせて、熱心に手を上げて祈るとき、神の手が動き、奇蹟が始まるのです。
神さまは今年、驚きたくなるわざをすると語っておられるのです。
あなたがペテロなら、教会が祈っていることを忘れないでください。あなたが愛する人がペテロのように、どうすることもできない状況のとき、諦めないで、ひとりで戦わないで、教会で神に向かって祈りましょう。そのとき神さまが、奇蹟を現わしてくださることを期待してください。
(文責 石田雅則)
主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2014年11月16日 主日第2礼拝メッセージ