『ふたつ目の奇蹟』
聖書箇所 ヨハネの福音書4章46〜54節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師
イエス様が再びガリラヤに戻ってこられたとき、カペナウムには病気で死にかかっている息子がいる王室の役人がいたのです。
王室の役人といえば、やはり社会的立場のある人でしたから、人脈や経済力などを頼りに、愛する息子のために名医にかかったり、高い薬を飲ませたりするなど、ありとあらゆることをした、または、しようとしたと思われます。
しかし、どうしても治らない、不治の病と宣告され、息子を助けられなかったのです。
そこで、いやしや奇蹟を行なっている、イエス・キリストの話を聞き、役人は長時間かけて歩いていきます。
@キリストのところに行く
経験や持っているものなどではどうしても、どうにもならないことがありますが、そのときにどうするかがカギです。
諦めるのか、それともキリストのところに行くのかです。キリストのところに行く人は、勝利を見ます。
この役人も、47節で、キリストのところに行って、息子を治してほしいと懇願し、その結果、治ったのです。
ですから、自分に限らず、愛する友人や家族などがそのようなときでも、落ち込まないでください。
確かに、どこで祈っても主は応えてくださいますが、「キリストのところに行く」というのは、教会で祈ることなのです。
この役人が、カペナウムから30kmを歩いてイエス様のところに来たように、教会にキリストが満ちているからこそ、教会に来て祈ることに意味があるのです。
Aキリストご自身を求め信じる
ところが、48節でイエス様に「あなたがたは、しるしと不思議を見ない限り、決して信じない。」と言われます。
これは、しるしや不思議・奇蹟を行なってはいたけども、「しるしと不思議があるから信じるのか。」ということです。
イエス様は、確かにしるしや不思議をされますが、イエス様ご自身を求め、ご自身を信じてほしかったのです。
キリストが与える祝福ばかりを求め、キリストご自身を求めない人がいますが、この人の特徴は、キリストの御名のゆえに困難や迫害が起きたとき、文句を言うのです。キリストご自身を求める人は、困難や迫害の時に喜ぶのです。
愛する人が苦しむとき、あなたが行って、その人の苦しみを和らげたり、負担を担えたら、嬉しいのと同じです。
B引き下がらずことばを信じる
突き放されたような感じですが、ここで役人はあっさり引き下がりませんでした。息子を愛していて、どうしても治してほしくて、しかも「キリストなら治せる! キリストしかいない!」と確信していたのです。
そして、その姿を見たイエス様は、「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。」とことばを与えられ、役人はそのことばを信じて帰ったのです。ことばを信じるということは、その人を信じているのです。
諦めたくなるようなことが、人生にはたくさんありますが、投げたり、神さまに対して諦めたりしてはいけません。
さらに、主のことばを単純に信じる人は、(個人でなく)教会を通して祝福が起こり、教会が祝福の土台で、本人のみならず家族全体にまで祝福が及ぶのです。
今回の場合も、死にかける病気を通りましたが、家族までもが信じ、救われたのです。
これが、私たちの信じている神さまです。
今年は「おそるべきわざを行う」と語られています。そのわざを今後、ともに見ていきましょう。
(文責 石田雅則)
主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2014年12月21日 主日第2礼拝メッセージ