『十字架の赦しの愛』

                     聖書箇所  ルカの福音書2338-43節  メッセンジャー イザヤ木原真牧師

・沈黙の奇跡

十字架にかかられたイエスは、多くの暴言を浴びさられました。前の晩を徹夜で過ごされ、三十九の鞭をうけながらも、暴言を吐く人々に一言も言い返しませんでした。

十字架刑には、イエスと共に二人の極悪犯罪人が、右と左にかけられました。

始めはその二人も同じように、暴言を吐いていました。「お前はキリストではないかわたしと自分を救え!」その言葉にイエスは沈黙を守りながら、何も言い返すことをせず「父よ、彼らを赦してください。彼らが何をしているのかわからないのです。」と祈り続けていました。

どんな悪口雑言にも、一言も言い返さず、祈られたイエスの姿こそ、人にはできない奇跡です。

・変わった男
イエスのその姿を見て、片方の男に変化が起こり、暴言を吐くもう一人に向かってこう言いました。
「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」彼はイエスの姿を見て、真実の愛に出会ったのです。

自分自身の罪を認め、彼が神の子だと信じたのです。これは悔い改めと信仰です。
人は多くの罪を犯しているからと言って、罪を自覚するわけではなく、真実の愛に出会うとき、罪を認めることができるのです。
彼はこう続けて言いました。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」

彼は、自分の罪の重さを知り、「わたしも連れてってください」と言うことができませんでした。しかし、イエスは彼に「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」と言ったのです。「きょう」は「今」と訳すことができます。

私たちは、死んだら間違いなく天国へ行けますが、それとともに今、天国にいるのです。

・捨てられたイエス

それまで、父なる神を常にアバ(父さん)と呼んでいたイエスは、こう叫びます。

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
呼び方は関係をあらわしますが、父と言わず、神と言いました。神とは異邦人が呼ぶ名でした。

イエスはここで、まさに父なる神に捨てられたのです。
それは、私たちが本来捨てられるべきだったのに、私たちの身代わりになってくださったゆえです。聖書にこう書かれています。「太陽が光を失っていた。また、神殿の幕は真っ二つに裂けた。」

まさに地上にもその現象が起こりました。

神殿の幕は、大祭司が年に一度だけ神の臨在されるところに入ることができました。

その「幕が裂けた」ことの意味は深く、「どこにいてもどんなひとでもイエスを信じる者は誰でも、神の臨在の中に入ることができる」と言う意味です。まさにイエスが捨てられた時、わたしたちの贖いが完成したのです。十字架の恵みはここにあるのです。

もう一度、すべてをゆだねて

イエスは最後にもう一度こう大声で叫ばれました。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
イエスはここで、ご自分の使命を全うされました。イエスの使命は、十字架にかかり、わたしたちの身代わりになり死ぬことでした。
しかし、イエスはもう一度、父よと言い、父なる神を信頼され、すべてをゆだねられました。復活も勝利も信じていました。
しかし、イエスご自身でなさったのではなく、復活も勝利も父なる神が聖霊によってなされたのです。

パラダイスに行けた男

十字架にかかられたイエスを、となりで見ていたパラダイスにいけた男から学ぶことがあります。彼は十字架の上で救われましたが、
そのあと、何もすることはできません。恩返しとして、献金も賛美も祈りも、することはできません。しかし、彼の話は、二千年たった今日でも
この教会で話させているのです。わたしは天国にあったら彼に会って言いたいのです。あなたのおかげで、たくさんのメッセージをすることができました。
たくさんの人があなたを通して救いに導かれました。

私たちももう一度、十字架から流れてくるイエスの真実の愛に目を向けながら、聖霊によって復活させてくださる神に期待して
使命に生きていきましょう。

 

(文責 木原エルサレム)

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会

2015 322日 主日第2礼拝メッセージ