『聞かれる祈り』

            聖書箇所 ルカの福音書181-8節     メッセンジャー イザヤ木原真牧師

27節で、イエス様が「人にはできないことが、神にはできるのです。」と言われました。

直接的には「救い」のことを語っておられます。

確かに神にはどんなことでもできるのですが、神様の手を動かす鍵は祈りにあるのです。

イエス様は、9-14節でたとえを話されました。

「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者」は、パリサイ人です。

「ふたりの人が、祈るために宮に上った。」このもうひとりは取税人です。

パリサイ人は心の中で、自分の義に立って11-12節のとおり祈り、聞かれませんでした。

一方、取税人は『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』と、「自分は神様に顔を上げられないくらい罪人だ。」と思って祈りましたが、この取税人が義と認められて家に帰ったのです。

低い心で祈る祈りは届き、砕かれた心で叫ぶと主は聞かれるのです。

16節の「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、この

ような者たちのものです。」とは、子どものように弱さを認めて素直な心で神様のことばを単純に受け入れないと、神の国には入れないということです。

祈りも、みことばに従って素直な心で祈るときに聞かれるのです。

35節では、ある盲人が道ばたで物ごいをしていて、そこに「ナザレのイエスがお通りになるの

だ」と聞くと、大声で「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と言いました。

弟子たちは、盲人を黙らせようとしましたが、ますます叫び立てたのです。

その時にイエス様が立ち止まって、彼をそばに連れてくるように言いつけられたのです。

41節でイエス様は、「わたしに何をしてほしいのか。」と、あえて聞いておられます。

そしてこの盲人が「目が見えるようになることです。」と言った時に、イエス様は彼に「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです。」(42節)と言われ、見えるようになります。

何をどうしてほしいのか具体的に祈る、求めることが大事なのです。

 

いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるため、1節でイエスは話されます。

ある町に、(神を恐れず人を人とも思わない)悪い裁判官と、ひとりのやもめがいました。

やもめが『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っても、しばらく相手にしませんでしたが、『どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたない。』と言ったのです。

7節にあるように、まして神は、いつも絶えず求めている選民である、ユダヤ人やクリスチャンのために、さばきをつけないで放っておかれるでしょうか。

「神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。」(8節)とありますから、神様は、私たちが忍耐強く祈るならば必ず応えてくださるのです。

簡単に諦めず、忍耐強く祈ることが大事なのです。
神にとって、不可能なことは一つもないのです。

神様は祈りの手を上げること、祈っていくことを待っておられます。

   (文責 工藤恵美子)

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会

2016 214日 主日第2礼拝メッセージ