『十字架の赦しとあがない』

     聖書箇所 マタイの福音書2745-54節  メッセンジャー イザヤ木原真牧師

十字架は普通、710日かけて狂い死にする刑ですが、イエス様は鞭打ちと徹夜、それまでの過労や極限の苦しみ・痛みで、朝9時に十字架に架けられ、6時間後の午後3時に亡くなられました。12時に暗黒が来ますが、過ぎ越しの祭りは満月の時ですので、日食ではなく明確に特別な現象です。これは神の子であったイエス様が神に捨てられ断たれたことを意味します。

それまで「アバ、父よ。」と言われていましたが、捨てられ断たれて父ではなくなり、初めて「わが神よ。」と言われたのです。この叫びは、本来なら私たちがこの叫びとともに地獄へ落ちるべきでしたが、代わりにイエス様が捨てられ叫ばれたものです。

神が神に捨てられることは私たちには理解できませんが、私たちを救い赦されるため、罪を背負って十字架にかかられ、神に捨てられ、よみに下られました。

 

赦しは、罪はなくなりませんが悔い改めると赦され、一度も罪を犯していないものと見なされることであり、悔い改めると、神さまは罪を忘れてくださいます。これは人にはできません。

罪にとらわれ、祈りを小さくするようなことはやめましょう。

 

十字架にはもうひとつの大切な意味があります。イエス様が神に捨てられたとき、サタンに売り渡されました。人間が造られたときは神のもので、神は私たちを愛し自由を与えられましたが、人が正しく選べなかった結果、この地上はサタンの支配下に置かれました。それで、神を信じるまでは罪とサタンの奴隷なのです。ところが、私たちを買い戻すため、神はイエス様を十字架につけキリストのいのちという代価を払い、サタンから買い戻されたのです。

だから、私たちはキリストのいのちという代価のある、とても価値あるものなのです。これは同時に、神は私たちを、それほどに価値あるものと見られたということでもあります。

また、愛する人は自由を与え、愛しきったうえで最終的には相手に選ばせます。

ですから、お互いにこのことを意識してください。

 

多く赦されると、うれしいものです。人と比べれば罪の大小はありますが、神の前に大差はありません。また、赦され、あがなわれた私たちは、神のものとなったのですから、サタンの言うことを聞かなくてよく、従わなくてよく、縛られなくてよく、サタンがあなたに命令する資格はありません。サタンが言ってきたら、「もうお前のものではない。キリストのものである。」と言い返してください。

献身は、神に人生をささげ、神の前に本来の位置に立つということです。そうすると、その祝福があふれ出してきますし、自由ですし、サタンからまったく解放されます。

 

51節で神殿の幕が真っ二つに裂けますが、これは、いつでもどんなときでも誰でも、神のもとに行けるようになったということです。このことを知っている人は多いですが、この恵みに生きている人は少ないです。もっと大胆に入ってきてください。主は待っておられます。

ここに答えと解決があり、力を受けます。

十字架のときに多くの人々が生き返りました。

十字架の力はそれほどにすごく、その力がこれから現されます。

 (文責 石田雅則)

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2016
320日 主日第2礼拝メッセージ