『証を受けて宣べ伝える』

      聖書箇所 ルカの福音書2444-53節  メッセンジャー イザヤ木原真牧師

まず5-6節と22-23節にあるとおり、イエス様は死と罪とサタンに打ち勝って復活され、今も生きておられ、今も、永遠に生きておられます。

ですから、私たちの祈りに応答されますし、具体的に働かれ、最善をあらわされ、見守り、関わってくださいます
 私たちは、死んだ神を信じているのではありません。
 また、そのイエス様が復活されたとき、弟子たちに、マタイの福音書でもマルコの福音書でも大宣教命令を語られました。

ルカの福音書でも同じく大宣教命令について言われました。

 

聖書は、心を開かないと分からず、知識としては分かっても私たちの生活に影響しません。
 聖霊によって私たちの心の中に入ってくるとき、私たち自身や人生を作り変えられます。
 45節でも、イエス様が弟子たちの心を開いてくださったのです。
 46-48節で、大宣教命令について具体的に語られます。
 証人(あかしびと)は、証がないことにはなれませんが、より実感をもって証を宣べ伝えるよう言われたと同時に、
証を与えるとも言われたのです。
 悔い改めは恵みで、まず根本的な罪について赦されますが、それだけでなく私たちの人生の中で失敗するたびに悔い改めるごとにも恵みを受け、さらにそのただ中で愛を感じます。
 また、感謝すると、神の手が動くのを非常に具体的に実感します。

ただ、主の時までには忍耐が必要です。その忍耐の中で、主は働かれます。
 地球の裏側も、身近な人々も全世界ですが、その人々に証を持って行くよう言われています。
復活されたイエス・キリストは、罪と死とサタンに勝ったのですから、その方を信じている私たちもすでにそれらに勝ったと同時に、えこひいきのない神さまはひとりひとりに最善とその祝福を与えたいのです。
 人はあまり待たされると、祈っていたことさえも忘れたり、すぐに起こらないと思うことがありますが、神の時が来ると成就が「いつか」から今日になり、過去の証になります。
 49節では「聖霊の力を受けるまでは、都にとどまっていなさい。」と言われています。
 ここでのエルサレムとは、弟子たちにはエルサレムですが、私たちには「今おかれている場所」のことで、この教会や、あるいは遣わされている職場などのことです。
 今いるところで力を受け、それから行く必要があります。
 今いるところが好きでないとしても、そこで感謝すると豊かな恵みを受けます。
 
ことばや力を受けたら、ためらわずに行きましょう。
 50-53節にあるとおり、たとえ最悪なときに最悪なところでも、神のことばに従って喜びを抱いて賛美すると、主の霊が働き、神からの力を受けます。
 

どのようなつらいときでも、イエス様の十字架を見上げると、イエス様があなたを理解してくださっていることが分かります。
 忍耐しつつ、その中で本当に賛美し続けた人はそれを知りますし、主の奇蹟を期待して信じてともに賛美する人を神さまは招いています。

 (文責 石田雅則)

主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2016
327日 主日第2礼拝メッセージ