『聖霊による悔い改めの恵み』
説教箇所 マタイの福音書3章1〜12節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師
バプテスマのヨハネが、「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と言います。
悔い改めというと、日本では「懺悔」といった暗いイメージですが、本来は聖書が教えているように、聖霊による悔い改めをすると、その後に喜びが湧き上がって来、また救いをもたらし、新しい希望、新しい人生が与えられます。
悔い改めで大事なのは、人の罪ではなく自分の罪ですから、まず自分の罪の自覚が必要です。
人はクリスチャンでさえも、罪に陥っている時に、罪が分からなります。
Uサムエル11章に、ダビデ王の罪の悔い改めについて書かれています。
ダビデでさえも分からなくなったように、人は高ぶると罪が分からず、また気づきません。
この時、ナタンが例え話をしても、自分の事を言われても気づかず、分かりませんでした。
「それは、あなたです。」と言われた瞬間に分かるのです。
ダビデのように、いくつもの罪を犯していても分からないのです。
罪は分かっていたとしても自覚させなくなり、罪が罪でないと思うようになるのです。
罪を自覚しているつもりでも、実際は自分で自分の罪が分からないほど、心が高く盲目です。
また神様の声が聞こえないなど、覆われている場合、多くの場合は罪が関わっています。
ですから人は、神のことばが飛び込んで来る時、罪を自覚するのです。
本当に聖霊が導く悔い改めは非常に具体的で、祝福や喜び、奇蹟をもたらし、逆転します。
それは、十字架でイエス・キリストが、私たちの罪の為に本当に罪そのものになって、十字架で死んで私たちの代わりによみにまで下り、裁きや呪いを全部引き受けられたからです。
しかし人はかたくななので、聖霊の助けがないと真実な悔い改めは出来ません。
真実に悔い改めると、赦され、祝福が波のようにやって来、主の語りかけが聞こえて来ます。
これは恵みですが、まだ経験しておられないならば、悔い改めの霊を祈り求めましょう。
ダビデは本物の悔い改めだったので、祝福を受けました。
しかしサウロの悔い改めは通りませんでした。
(Tサムエル15章)サウロは惜しむ心ゆえに、王であったにもかかわらず全ての物を聖絶出来ず、聞き従えず、しかもそれを民のせいにして言い訳しました。
そして、(本物ではない)悔い改めをし、「あなたの神、主を礼拝させてください。」と言いますが、本音はあくまで自分の面目と立場を守りたかったまでなのです。
それと逆にダビデは、「神がなさったことは正しく、私が間違っていた。」と認めました。
結果としてダビデは、神様に恐ろしいほどに用いられたのです。
本当に聖霊に導かれた悔い改めを神に助けて頂くと、すごい祝福が待っています。
また、旧約の人たちが私の罪、私たちの罪として悔い改めたように、罪を自分も一緒として祈る時に、祈りは聞かれます。
ぜひ、救いと喜びに至る悔い改めをなし、素晴らしい祝福を見ていきたいと思います。
(文責 工藤恵美子)
主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2016年5月 8日 主日第2礼拝メッセージ