『神さまによる根本的解決』
説教箇所 使徒の働き3章 1〜10節 メッセンジャー イザヤ木原真牧師
ぺテロとヨハネが、当時の習慣どおりに午後3時の祈りの時間に宮に上っている途中で、足のなえた人が施しを求めていました。
当時は社会福祉がありませんが、施すことは神に仕えることの一部で、より確かでした。
ぺテロとヨハネはその人に「私たちを見なさい。」と言います。
そう言われると普通は、より多くのものを期待するでしょう。
しかし、すぐあとに「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい。」と言いました。
これは、「あなたの欲しいものは私にはないが、あなたに根本的に必要なものがある。イエス・キリストの名によっていやされて、歩けるようになりなさい。」と言っているのです。
元々ユダヤ人を恐れていた彼らは、聖霊のバプテスマを受け、イエス・キリストが内に住まわれ、ともに生きていてくださることによってできる働きをしていたのです。
神学的には、確かに私たちの内にはイエス様は生きて住んでおられます。
しかし、私たちがその信仰を働かせるときにこそ、神のわざは起こされるのです。
リバイバルに向かって聖霊の注ぎかけが強まり、日本でも働きが起こされようとしています。
このイエス様が、救いもいやしも奇蹟も解決も、おできになるのです。
また、私たちが神のことばを単純に信じて従って踏み出すときも同様にわざが起こされます。
教会に集まって祈ることは、聖霊の注ぎかけや踏み出す力が与えられる重要なポイントです。
足の萎えていた人は、普通には治りようはなく、そのことを受け止めて生きていました。
「自分で歩けるようになる。」という発想はなかったでしょう。
そこにぺテロとヨハネが言ったことは、要は「根本的な解決として、足がいやされて歩けるようになれば、自分で生きていけるようになる。」ということでもあったのです。
私たちは目の前の解決を求めがちですが、神さまは根本的なところの解決をされます。
目の前の解決も神さまには簡単ですが、根本が変わらなければ人は繰り返します。
このあと、足が萎えていた人は足とくるぶしが強くなり、躍りながら喜んで宮に入っていき、自分で稼げるようになり、今度は施しをする側になったことに感動したでしょう。
ただ、このとき手が差しのべられて立ち上がったように、あなたも少し助けましょう。
神さまは根本的な解決をもって、あなたの人生を造り変えてくださいます。
そのことを、まず私たちが受けることができるとともに、私たちを通して起こされます。
その喜びを、ともに受けていきましょう。
そのとき、決して高ぶらないようにしましょう。
この時代に生かされていることで、受ける恵みです。
(文責 石田雅則)
主の十字架クリスチャンセンター 神のしもべ長崎教会
2016年5月22日 主日第2礼拝メッセージ