2004年2月29日(日) 主日第二礼拝 イザヤ木原真牧師 |
『神の言葉に従う』 ルカによる福音書5章1節〜11節 |
*自分の経験、判断、考えに立たず、神の言葉に従う *一人が神の言葉に従うとき、その祝福はその周りにまでおよぶ *神への恐れ *自分の経験、判断、考えに立たず、神の言葉に従う 1節〜この時、イエス様の周りには多くの群集がいました。なぜならイエス様は、多くの病人に奇跡の癒しを行い、悪霊に憑かれた人たちを悪霊から解放していました。 今でも、癒しを行い悪霊を追い出されます。癒しを信じ、奇跡を信じるところで、癒しは起こり奇跡は起きるのです。 3節〜イエス様はシモンの船に乗り、少し漕ぎ出しゲネサレ湖(ガリラヤ湖)に出て、そこから群集を教えられました。話しが終わった後、イエス様は深みに漕ぎ出して漁をするように言われました。 5節に書いてありますが、シモン・ペテロは前の晩一晩中、漁に行きまして一匹も魚を獲れない夜を通ったのです。ペテロは、ガリラヤ湖の漁師でどの時間にどの場所に行けばいいか知っているプロフェッショナルでした。 もちろん神の子ではありますが、石工であり、漁に関しては素人のイエス様が、プロフェッショナルであるペテロが一晩かかっても一匹もとれずに落胆していた所に、深みに漕ぎ出して魚を獲る様に言われたのです。しかも、この時間帯は魚が獲れる時間帯ではありませんでした。これは、疲れきったペテロには理解しがたい事だったでしょう。しかし説教を聴き、この方は違うと感じたのでしょう。ペテロは、自分の経験、判断、考えに立たずにイエス様の言葉に従ったのです。 5節を見ると100%信じて、すごく期待して従ったようには見えません。しかし、ペテロは神の言葉に従ったのです。私たちの人生の中で、自分の最も得意な分野、ペテロで言えば漁、専門の分野で、とんでもない失敗をしたり、ここだけは上手くいくと思っていた所で失敗をした事はないでしょうか。ペテロは、一匹も魚が取れないと言う最悪を通りました。しかし、最悪を通ったのでペテロは、神の言葉に従えたのです。 私たちが得意な分野、知っている分野で、問題に直面したとき、得意分野だからこそ信仰が湧かない時があります。しかし、みなさん落胆しないで下さい。それは、いままでにないぐらいに神様を知るチャンスです。神様の方に従った時、逆転を見るのです。神の言葉は力があるのです。神様の言葉が私たちの目に愚かに見えても、従う者がその神の言葉を通して奇蹟を体験するのです。 *一人が神の言葉に従うとき、その祝福はその周りにまでおよぶ 6節〜イエス様の言った通りにすると網がやぶれそになるほどいっぱい釣れました。 やぶれそになるほどに、ぎりぎりまでいっぱいに魚が釣れたのです。7節を見ると一艘は残っているのがわかります。神さまに従わずに残っていたのです。名前を付けるなら、不信仰舟・不従順舟です。 しかし、ペテロたちが従った結果、網が破れそうになるほど釣れて、従わなかった 舟までも助けを呼ばないといけないぐらいに祝福があふれたのです。従わなかった舟 までも祝福にあずかったのです。神さまはこういう方なのです。 私たちが神様に従う時、その周りにまで祝福が及ぶのです。あなたが神の言葉に従って行くなら、あなたの存在が家族の、学校の、職場の祝福なのです。 *神への恐れ 8節〜ペテロは、最も得意分野、専門の分野で起こりえない事が起き驚きました。 神を体験したのです。あまりすごい神の業にふれて何を体験したかと言うと神様への愛と同時に神への恐れです。本当に神様を体験するとき、愛とともに健全な恐れを体験するのです。 神様の愛と聖さを恐れを体験したペテロは、自分のけがれ、罪深さ、弱さを知りました。しかし、その時神様に召しだされたのです。面白い事に、クリスチャンは、最も弱いときに強いのです。なぜなら、私たちの土台は、神の言葉なのです。私が何かを出来るから、何かをやったからこの神様の働きを担うのではなく神の言葉があるから神様を礼拝をできるのです。 その後、ペテロは何もかも捨ててイエス様に従いました。彼が何もかも捨てれたのは、極端になったからではありません。それぐらい、神様の確かさを体験したのです。 神の現実を見たので従えたのです。ぜひその事を覚えて下さい。 (文責 モーセ出西光) |