今までの説教要旨

2004年3月21日(日)
主日第二礼拝
イザヤ木原真牧師
『ハンナの祈り』
   第一サムエル記1章1節〜18節
*主の前に心を注ぎだして祈る 
                         
 今日は、第一サムエル記から、ハンナの祈りのところを見ていきたいと思います。
 
 このハンナという人は、エルカナの妻でありました。エルカナには、旧約時代ですので、二人の妻がいました。一人はハンナ、もう一人はペニンナといいます。ハンナには、子供ができず、 ペニンナには、子供がいました。当時では、子供がいることは祝福で、子供がいないことは、 呪われているとまではいいませんが、非常にマイナスのイメージでした。
 1章6節に「彼女を憎むペニンナは、主がハンナの胎を閉じておられるというので、ハンナが気をもんでいるのに、彼女をひどくいらだたせるようにした。」とあるように、毎年宮に上るたびに、ペニンナは、ハンナに意地悪をして、傷つけていました。
そのため、ハンナは、泣いて食事も、のどに通らないくらい心が痛んでいました。
 そのような中で、ハンナは、どうしたでしょうか?つぶやいて神様に文句を言ったのでしょうか?落ち込んで、誰かにあたったのでしょうか?ハンナがしたことは、そうではありません でした。

*主の前に心を注ぎだして祈る
 10節に「ハンナの心は痛んでいた。彼女は主に祈って、激しく泣いた。」とあるように、彼女は、そのいらだちと、食事ものどに通らないくらいの悲しみと痛みの中で、すべてを主の前に注ぎだしたのです。
 人間には、どんなにすばらしい人でも、受け取れる範囲と量があります。しかし、神様は どんなに、私たちが心を注ぎだしたとしても、その全てを受け取ってくださる方なのです。
 16節に「このはしためを、よこしまな女と思わないで下さい。私はつのる憂いといらだち のため、今まで祈っていたのです。」とあるように、憂いといらだちの中で、その思いを誰かにぶつけるのでもなく、自分で落ち込むのでもなく、主の前に注ぎだして祈ったのです。
 私たちの人生においても、ある場合は、悲しみや苦しみ、ある場合は、いらだちや怒りを通るとき、誰かにぶつけるのでもなく、自分の中で押し殺すのでもなく、それを本当に主の前に注ぎだしていくとき、神様はそこに触れてくださるのです。
 ハンナは心を注ぎだして主に祈りました。しかも、11節にあるように、「このはしために男の子を授けてくださいますなら、私はその子の一生を主におささげします」と祈ったということは、まだ、子供がいないなかで、子供が与えられるという信仰とその子供を捧げるともっと主からの祝福を受けるという信仰があったということです。
 さらに、12節に「ハンナは主の前に長く祈っていた」とあるように、長く祈っていたのは、主からのある確信がほしかったのです。そして、祈ってる中で、主からの平安と祭司エリを通して神様からの言葉をいただきました。
 17節の「安心して行きなさい。イスラエルの神が、あなたの願ったその願いをかなえてくださるように。」の言葉をもらった瞬間ハンナの心に平安がやってきたのです。
そして、18節に「それからこの女は帰って食事をした。彼女の顔は、もはや以前のようではなかった。」つまり彼女は、神様から言葉をもらった瞬間、元気になり、輝きをとりもどしたのです。  
 この後、ハンナには、男の子が与えられ、その子供を主に捧げ、捧げた結果、男の子が3人、女の子が2人、サムエルを入れると6人の子供が与えられたのです。
 私たちも、思い煩いや心の思いすべてを人にではなく、主の前に注ぎだすとき、神様は必ず その祈りに答えてくださり、解決を与えてくださるということを覚えていただきたいと思います。                   (文責 ヨシュア南)