2004年4月18日(日) 主日第二礼拝 イザヤ木原真牧師 |
『イエス・キリストの十字架』 ルカの福音書 23章33節〜38節 |
*キリストは、十字架でひとことも、言い返さなかった *十字架上でとりなされた 今日は、イエス・キリストの十字架のところを見ていきたいと思います。 当時のユダヤでは、十字架刑が、もっとも残酷で、もっとも重い刑でした。両手、両足の三点に釘をうたれ、出血多量と呼吸困難で、最後は狂い死にするのです。ですから、イエス様が、かかられて、しばらくたって、十字架刑は無くなりました。それほど、残酷だったのです。 なぜ、キリストは、そのような所を通らなければならなかったのでしょう。それは、私たちを苦しみから解放するため、罪から自由にするためでした。 キリストは、十字架で、人々から、あざけられ、罵声を浴びせられ、つばきを吐きかけられても、ひとことも、言い返しませんでした。苦しみの中で、キリストは一言も誰かを呪ったり、怒ったり、さばいたり、わめいたりしませんでした。人々の罪のために十字架にかかられているのに、あらゆる罵声を浴びせられたのです。 もし、あなたが誰かのために、良いことをしてあげたのに、その人が誤解をして、あなたに、文句を言ったとします。どんな気持ちになるでしょう。「それは、誤解だ」とか、あるいは、「あなたのためにしてあげているのに」とひとこと、言いたくなると思います。 しかし、キリストはこの時、激しい苦痛と罵声のなかで、ひとことも言い返されなかたのです。 しかも、それだけではなく、キリストが、十字架上で最初に言われた言葉は、赦しだったのです。「父よ彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」と始めに十字架上で父なる神様に赦しを願われたのです。つまり、キリストは、十字架上で、自分に罵声を浴びせている人々を赦し、父なる神様に赦しを願われたのです。そして、キリストは神様と私たちを十字架の上でつなぎあわしてくださったのです。 そして、35節に、民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」とあります。 この、指導者たちというのは、ユダヤ人の祭司長、長老、律法学者たちのことで、キリストに罵声を浴びせていましたが、「あれは他人を救った」とあるように、キリストが他人を救ったというのを認めているのです。その上で、「自分は救えないのか。 十字架から降りて来い」と言いました。実は、この時、キリストは、十字架から降りることはできました。 しかし、キリストは、十字架から降りませんでした。 なぜ、十字架から降りなかったのでしょうか? 一つは、神様を愛していたから。もう一つは、私たち人間を本当に愛していたからです。 もし、キリストが十字架から降りてきたら救いはありませんでした。キリストの十字架以外、救いはなかったのです。キリストが十字架で私たちの代わりに死ぬ以外、贖いはできません。キリストは、なんとしても、人を救い、死の淵から人々を助けたいと思われました。 ですから、どんなに、人々から罵声を浴びせられても、十字架から降りなかったのです。 本当に十字架をひき受けられたイエス・キリストの愛は見せかけではなく、本物です。 私たちがこの十字架を信じる時、苦しみから解放され、呪いから解放され、永遠の命が与えられるのです。どうぞ、そのことを覚えてキリストを信じて永遠の命を受けていただきたいと思います。 (文責 ヨシュア南) |