2004年4月25日(日) 主日第二礼拝 イザヤ木原真牧師 |
『イエス・キリストの十字架A』 マタイの福音書27章45節〜54節 |
*神に捨てられたキリスト *私たちのよりどころそれは十字架 今日は、キリストが十字架にかかり、時間的に最後の方で語られたことばです。 十二時から暗黒がやってきて3時間真っ暗になりました。これは、キリストが神に捨てられたことを意味します。そこで、キリストが叫ばれた言葉が「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と言われました。イエス様は十字架の上で苦しみ抜かれたのですが、ただ苦しんだだけではなく神から完全に捨てられたのです。 それは、体と心において捨てられただけではなく霊においても捨てられたのです。 私たちがイエス様を信じた時、心に来て下さって、私たちはけっして捨てられることはありません。殉教したとしてもキリストはそこに現れます。私たちはどこに行っても神がともにおられます。 でも、イエス様は十字架の苦しみの極みの中で神に完全に捨てられたのです。 神に断ち切られたのです。 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」なぜこう叫ばなければならなかったのでしょうか。それは、私たちが叫ばなくて良いためです。本当は私たちが神に捨てられて、こう叫ばなければなりませんでした。「どうしてお見捨てになったのですか」それは私の罪のために、あなたの罪のために、キリストが捨てられたのです。もともとイエス様は三位一体の方ですから、父なる神と一緒におられたのです。 聖書をひもとけば「アバ、父よ」といつも父なる神を呼んでおられるのです。信頼して安心している子どもがお父さんを呼ぶ時の言葉が「アバ」なのです。十字架の極みの中でも「アバ、父よ。」と呼び父なる神と一体だったのです。いつも、いつも一体だったのです。 ところが、ここでは「わが神、わが神」なのです。神と言う言葉は異邦人でさえ、信じていない人でさえ使います。この時イエス様は父なる神様に断たれて完全に捨てられたのです。われわれのかわりにキリストは地獄にまで行き黄泉にまで下ったのです。 しかも48節で「酸いぶどう酒」をとられました。これは痛みが増すのです。なぜでしょうか。苦しみの極みのもっと極みまで味わわれたのです。なぜでしょう。ほんとうに苦しんでいる方、傷んでいる方の代わりにイエス様が苦しみを引き受けて黄泉にまで下ったのです。お芝居ではありませんでした。イエス様の十字架は本当に苦しみを引き受けて、我々の代わりに父なる神に捨てられて地獄に下ることだったのです。 だからもう私たちは地獄に行く必要はありません。罪に縛られることはありません。 代わりにキリストが捨てられたからです。キリストが捨てられたので、もう私たちは捨てられることはありません。どんなに苦しんでいてもどんなに私たちの罪が深くてもどんなに私たちが失敗しても、もう二度と捨てられることは絶対にありません。今どんなに最悪な中にいる方でも信じるなら、そこから神様は救い出して下さいます。 これが福音なのです。十字架は希望なのです。 エルサレムの神殿には聖所の中に幕があり、その中に至聖所があります。一年に一日だけ大祭司が天幕の中に入り、そこに神がおられる場所があるのです。罪深い私たちは一年に一回だけ神に会えるというのが旧約の時でした。この幕が真っ二つに裂けたのは、キリストが私たちの代わりに罪と罰を全部ひきうけて黄泉に下って、この時天幕が真っ二つに裂けた、これはいつでもどこでも、だれでもそこで神に会うことができるということです。これが十字架です。神様は遠くにいるのではありません。 あなたが十字架を信じて叫び求め祈るとき、そこに神がきてくださいます。そこに天国がやってきます。これが福音です。私たちの拠り所は十字架なのです。どんなに罪深くてもどんなに弱くても不十分でもキリストが神に捨てられたので、私たちは神に聞いてもらえるのです。もっと大胆に十字架の愛にすがりついて求めたら神の愛の手が伸びはじめるのです。どうぞそのことを覚えてください。 (文責 松田) |