2025.8.24 説教
「招待されるものは多いが、選ばれるものは少ない」 マタイの福音書 22章14節
by イザヤ木原真 牧師
- 競争社会に生きている私たちは、本日の聖句を「神の基準を満たすものは選抜され、不十分なものは落選する」というニュアンスで捉えてしまいそうになります。しかしそうではありません。全ての人が主の招待を受け取れば選ばれるのですが、その招待を拒むから選ばれないということです。私たちが選べば、選ばれるのです。
- 全ての人が愛されており、十字架によって赦されています。その真実を感謝して受け取る時、救いの喜びを生きることができます。しかし受け取らずして救いの喜びを味わえるはずがありません。赦されていることを信じていないのだから、赦されている喜びを知れるはずもないのです。同じように、さまざまな主からの祝福の招待を受け取れていないことが、私たちにはないでしょうか。
- マタイ22章は例え話から始まります。王様は招待しておいた客を披露宴に呼びに僕たちを遣わしますが、客人たちは畑(仕事)、商売(稼ぎ)、暴力(強い反発や拒絶)によって招待を拒否します。王様は怒って、客人たちの町を焼き払ってしまいました。キリストの恵みの招待を拒むものは、最後は裁かれることになります。「披露宴の用意はできているが、招待した人たちはふさわしくなかった」と王は言葉を残しました。客人はふさわしくなかったから招待されなかったのではありません。招待を拒むことを選んだことによって、ふさわしくない人間とされたのです。
- 客人たちは、主の招待よりも、自分で決めた優先順位に従っていたのです。仕事、稼ぎ、反発心、そして自分の方法論にこだわっていたのです。例え話の続きの、婚礼の礼服を着てない人がそうです。宴会を催す側が服を用意していて着替える時間はあったのに、その人は礼服を拒みました。神様の用意する方法よりも、自分のこだわりや義を通したかったからです。神様より大事なものが自分の中にある時、神様の声が聞こえなくなります、聞いても素通りしてしまいます、そして祝福を見失ってしまいます。主の言葉に耳を澄まし、従っていきましょう。
- 先日の九州ツアーで、とある方が「見た目で判断してはいけない。」と早天で語られ、その通りのことを体験しました。また小須田牧師のお父様は長野の農家で、主に示されてキャベツを作りました。合理的な計算によれば赤字になりそうでした。しかし蓋を開けると、大成功して事業は拡大、周りの農家にも祝福が及びました。南牧師の場合もそうです。佐賀で高校を卒業して以降、抵抗があった長崎に献身を導かれました。その主の招待を受け取った結果、長崎で出会ったアルバイトの店長とは今では大きな事業の責任者同士としてつながりがあり、生涯の伴侶とも出会いました。結婚式では、反発していた親戚が応援してくださえるようになり、経済的に余裕のなかった二人に、多くの教会員が喜びあふれながら食べ物を持ち寄り、テーブルに置く場所がなくなり、食べ物が余るようになりました。20年経った今でも忘れられません。身近なことから大きなことまで、主は本当に道を示されるのです。
- 人生には神の招きがあります。心を神に定め、期待していきましょう。招きに応答することで与えられる祝福は、実際に応答することでしか見ることはできません。
- 文責 木原イザヤ