殉教(二十六聖人)
The Lord's Cross Christian Center Nagasaki Church

第1回 福音は迫害と殉教によって 第7回 キリシタンの潜伏
第2回 日本26聖人@ 第8回 キリシタンの復活
第3回 日本26聖人A 第9回 浦上四番崩れ@
第4回 日本26聖人B 第10回 浦上四番崩れA
第5回 日本26聖人C 第11回 浦上四番崩れB
第6回 日本26聖人D 第12回 殉教者のためのお墓
第1回 福音は迫害と殉教によって イザヤ木原真(主の十字架クリスチャンセンター長崎教会牧師)
 
殉教は遠くの世界のことか
 「殉教」は、いまのような平和な日本においては現実味のうすい話です。まして殉教ということを真剣に受けとめて祈っている教会があるなら、多くの人に奇妙な印象を与えることでしょう。ところが、私の導かれた教会は、その殉教を真剣に受けとめて祈っている教会でした。
 私自身、この群の中に導かれて殉教という言葉を初めて聞いたとき、とても遠いことのように思われ、とまどいました。けれども、聖書をひもといて御言葉を調べ、日本の教会の歴史を見ていくと、殉教は決して極端なことでも遠くの世界のことでもないと、気づき始めたのです。
 また、私たちが自分たちの国や自分たちの教会という枠をはずして、世界に私たちの目を向け、海外宣教に出て行くならば、殉教に対する意識は大きく変わっていくでしょう。
 いまは、宣教史上でもっとも多くの殉教者が出ていると言われている時代です。宣教史においては、殉教は決して極端でもおかしなことでもなく、むしろ迫害と殉教の中でこそ、キリストの福音は宣べ伝えられ、広がり続けてきたといっても過言ではないのです。
 
使徒1章8節の約束
 イエス・キリストの福音がどのようにして世界に広がっていくかについては、イエスご自身があらかじめ語っておられます。
 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなた方は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、私の証人となります」(使徒1章8節)
 これは、イエス・キリストが、昇天される直前に弟子たちに向かって語られた有名な御言葉です。
 主が語られたこの約束の一部は、ペンテコステの日にエルサレムにおいて成就しました。
 その日,エルサレムで祈っていた弟子たちに聖霊が臨みました。激しい風のような響きが家を包み、弟子たちは他国の言葉で話し出しました。その様子に驚いた大勢の人々が集まってきます。そこでペテロは11人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりと福音を語ったのです。その日3000人ほどが弟子に加えられました。
 ですから、使徒1章8節の前半、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」という部分がこの日、成就します。
 しかしこの時点では、まだエルサレムにおいてしかイエス・キリストの福音は語られていませんでした。「エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、地の果てにまで」福音が伝えられると語られた後半の約束は,最初のエルサレムにおいて成就しただけです。
 では、どのようにして福音は、エルサレムにとどまらず,ユダヤとサマリヤの全土,地の果てにまで伝えられていったのでしょう。そのために神はどのような方法を用いられたのでしょうか。
 それは、殉教という方法を通してだったのです。


ステパノの殉教によって
 殉教というこの恵み、この特別な恵みにいちばん最初に選ばれたのが、ステパノです。
 ステパノは聖霊と恵みに満ちた人でした。食卓に仕える誠実で忠実な神のしもべでした。彼の日常は「神、ともにいます」喜びに満ちたものでした。
 ステパノは恵みと力に満ちており、人々の間ですばらしい不思議なわざとしるしを行っていました。しかし、まっすぐに御言葉を宣べ伝えたせいで、やがて捕らえられ(使徒6章)、町の外に追い出され、石で打ち殺されて殉教します(使徒7章)。
 ステパノが殉教した日、エルサレムのクリスチャンに対する激しい迫害が起こりました。使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされてしまいます。
 ところが、この散らされた人たちが、御言葉を宣べながら、ユダヤとサマリヤの諸地方をめぐり歩いたのです(使徒8章1、4節)。こうして1章8節の後半は「ユダヤとサマリヤの全土」という部分まで成就しました。
 さらに使徒の9章では、あの有名なパウロの回心が起こります。
 パウロは主の弟子たちに対する脅かしと殺害の意に燃えていました。ところが、道を進んでいる途中、ダマスコの近くで突然主の光に照らされ、主の声を聞き、主に出会うのです。
 やがて彼は回心し、サウロからパウロとなり、異邦人の器として地の果てにまで福音を伝える者となっていきます。パウロを通して使徒1章8節の約束は「地の果てにまで」という最後の部分まで成就するのです。
 しかし、このパウロの働きも、ステパノの殉教が一つの土台となっていることを忘れてはなりません。パウロはステパノを殺すことに賛成し、現場で着物の番をしていました。パウロの心に、ステパノの殉教の姿は強烈に残っていたことでしょう。
 ステパノが最後にひざまずいて、「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ祈りは、死に至るまでパウロの心にこだまし、いつも彼に神の恵みを思い起こさせ、与えられた使命に自らを駆り立てる原動力になったはずです。
 
神の選び
 このように、主が約束されていたことは、ステパノの殉教を通してことごとく成就していったのです。ステパノの殉教とエルサレム教会に対する激しい迫害は、福音宣教を後退させるどころか、逆に大きく前進させ、地の果てにまで福音が伝えられていく大きなきっかけとなりました。
 これが主の働きです。人間の計画とはちがう、主ご自身の計画です。
 ステパノは、聖書を見るかぎり、教会時代、すなわち聖霊時代の最初の殉教者と思われます。ステパノは、初めての殉教者、すなわち一粒の麦として選ばれたのです。そこには特別な「選び」があります。
 「あなたがたが私を選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び任命したのです。それはあなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためです」(ヨハネ15章16節)
 そう語られたお方の特別な選びです。
 私たちはステパノに会ったことはありませんが、ステパノの内に与えられた命は彼の祈りと殉教を通してパウロの内に実を結び、そしていま、地の果てにいる私たちの心にまでも届いて実を結んだことを知っています。福音は、このようにして私たちの心に届き、そして私たちは救われたのです。
 実はこれと同じようなことが、私たちの国、日本でもすでに起こっています。

26聖人の殉教
 約400年前ポルトガルやイスパニヤ(現スペイン)から、カトリックの宣教師たちが命がけで日本を目指しました。彼らによって初めて日本に福音が伝えられたのです。
 宣教が許可されたしばらくの期間の後、キリスト教は禁止され、1597年に日本で最初の殉教が起こります。そのとき殉教したのが、「日本最初の殉教者」と言われている日本26聖人です。
 彼らもまた、神によって選ばれた人たちでした。彼らの殉教に関しては、来月から詳しく書いていきます。ここでは簡単に述べましょう。
 時の権力者太閤秀吉は、キリスト教を迫害し、京都、大坂で24人を捕らえ(後に26人となる)、長崎の西坂の丘で殺すように命じたのです。秀吉は長崎に多くのキリシタンたちがいることを知っていたので、彼らへの見せしめのために、26人を長崎まで連れて行き、十字架にかけさせたのです。
 ところが秀吉の思惑とは逆に、26聖人の殉教者の後に長崎にリバイバルが起こりました。 
 西坂の丘に集まった多くの見物人たちは、26聖人たちが喜びに満ちて天に帰っていく姿に感動しました。クリスチャンはもとより、どっちつかずで信仰がはっきりしていなかった人々や、信仰をそのときまでは持っていなかった人までもが回心し、「私もクリスチャンです。どうぞ殺してください」と代官所に押しかけて行きました。
 この後、26万人が殉教したと言われています。
 また明治になってからでさえ、キリスト教はしばらくの間禁止されていました。そのときも、長崎にある浦上カトリックのキリシタンたちの殉教と迫害の後に、福音宣教は自由になりました。彼らが示した主に対する信仰の証しにはとても励まされます。このことに関しても後に書くことにしましょう。
 さらに明治以降であっても、戦争中には敵国宗教としてクリスチャンは迫害を受けました。
 このように、実は日本も、殉教者の多さや殉教の仕方という点では、世界有数の殉教国と言えるのです。
 
喜びながらの勝利の凱旋
 ステパノの殉教においても、日本26聖人の殉教においても、共通して言えることがあります。 
 彼らの目は主ご自身に、そして永遠に朽ちることのない報いが待っている天に向けられていました。そして、「喜び」ながら「赦し」ながら、使命を全うしていったのです。主を愛する心、賛美する心に包まれて…。
 「事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです」      (ヘブル11章16節)
 殉教、それは主を愛して喜んで十字架を負って従っていった者たちの勝利の凱旋です。そこには私たちが殉教という言葉を聞くとき持つような悲惨さや暗さはありません。なぜなら、彼らは「主とともにいた」からです。殉教者たちは主がともにいることを知っていました。
 主イエス・キリストを信じたとき、私たちは古い自分に死にました。そのとき、主の十字架の血潮の力によって、私たちの罪は完全に赦され、私たちは救われて、信仰によって義とされたのです。私たちは救われて信仰によって義とされたのです。私たちは罪に対して死に、この世に対してもすでに死んでいます。私たちはキリストともに十字架につけられたからです。
 殉教者たちは、この真理の中に生き、地上での生涯を、旅人として寄留者として全うしました。彼らの死は敗北ではなく勝利でした。
 まさに御言葉にあるように、一粒の麦となって彼らが地に落ちて死んだとき、豊かな実が結ばれていったのです。そしてその死はこれからももっと多くの実を結んでいくことでしょう。彼らはリバイバルの種となり、圧倒的な勝利者となったのです。
  「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでいたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです」(ヘブル11章13節)
 
 第2回 日本26聖人@ イザヤ木原真(主の十字架クリスチャンセンター長崎教会牧師)
 
日本最初の殉教
 いまからおよそ400年前の1597年に、日本で初めての殉教がありました。長崎の西坂の丘で、外国人神父6人を含む26人が十字架にかけられて殺されたのです。この殉教を日本26聖人といっています。
 私は、日本26聖人に関しては神学校の日本キリスト教史で学んだことがあったので知っていました。しかし特別な関心があったわけではなかったのです。
 ところが私の導かれた教会において、神さまは預言を通して長崎に祈りに行くようにと示され、特に26聖人の歩みを通して語ることがあると言われたのです。
 吟味の後、確かに主の御心と感じた私は、その後何度か長崎に足を運びました。殉教した彼らの足跡をたどりながら、私は主イエス・キリストに向かって祈り、御言葉を注意深く読み味わいました。そのとき、主は確かに多くの語りかけを与えてくださいました。それは、現代に生きる私たちクリスチャンにとっても非常に重要だと思えることでした。
 主が彼らの殉教への歩みを通して示してくださったことを、これから何回かにわたって書いていきたいと思います。
 それでは、まず簡単に26聖人の足跡を追ってみましょう。ただあまり歴史の細かいことがらにとらわれすぎないようにしたいと思います。大切なのは神さまの語りかけを聞くことにあるので・・・・・・。
1596年10月、一隻の巨大なガレオン船が四国沖に現れ、土佐浦戸の桂浜に座礁しました。これはスペインの商船サン・フェリペ号でした。この事件がきっかけとなって(このことに関していろいろな意見がありますが、ここではそれを調べることがテーマではないので詳細は省きます)、時の権力者、太閤秀吉はフランシスコ会士を中心に24人の逮捕命令を出したのです(後に26人になる)。
 
神を選んだマチヤス
 捕縛吏の一隊は、捕縛者名簿を作って京都にあった教会に踏み込みました。捕縛吏たちは、捕縛者名簿を読み上げながら、返答する信徒の人定めをしていました。
 そのとき一人の信徒が返答しなかったのです。マチヤスという名の料理人でしたが、彼は答えませんでした。すると同じ洗礼名を持っている全くの別人が「私の名もマチヤスです」と自ら捕縛吏の前に進み出で来たのです。
 役人というのは今も昔も変わらないようです。役人たちはとにかく頭数をそろえればそれで良かったので、捕縛者名簿に載っている料理人マチヤスを捜そうともせず、喜んでこの男を捕まえました。こうして彼は役人たちに受け入れられ、殉教者の群の中に神によって受け入れられたのです。
 いまもって殉教者マチヤスの生地も年齢も受洗日もわかっていません。けれども彼の名は天にしっかりと書き記されています。この後殉教していった多くの名も知られていないキリシタンたちとともに・・・・・・。
 彼はだれかの強制や押しつけではなく、自らの意志をもって殉教者の中に自分の身をゆだねたのです。このことを思うと、選びということを考えざるをえません。彼は自ら殉教という道を選び、神も彼を殉教者として選ばれたのです。確かに、神を選ぶ者を神は選んでくださるのです。
「招待されるものは多いが、選ばれるものは少ないのです」(マタイ22章14節)

もどり橋を渡って
 捕縛された24人は、6人のフランシスコ会士の外国人神父をはじめ、3人の日本人イエズス会士と15名のの日本人信徒でした。その中には、伝道士、伝道士見習いはもとより、元僧侶、武士や商人と3人の子供も含まれていたのです。ただ、この最初の殉教者の中には女性は含まれてはいませんでした。もちろんこの後、多くの女性が殉教していきます。
 秀吉はこの24人を長崎で処刑することに決め、さらに人々への見せしめのために、鼻と両耳をそぎ、惨めになった姿を大坂、京都などの主な町々で引き回せと命令しました。しかし京都奉行であった石田三成はいくらか減刑して、左の耳たぶを切るだけにしました。
 1月3日、上京一条の辻に24人は連れ出され、そこで左の耳たぶをそがれます。それから京都の町を引き回され、さらに大坂、堺でも引き回されます。
 実はこのとき、殉教をまぬがれるチャンスがあったのです。耳たぶをそがれる前に、上京一条の辻にある橋のところで、役人たちは彼らに言いました。
「もしここでこの橋を渡らずに、お前たちが信仰を捨てるなら、耳そぎはもちろん、処刑も免除されて許されるのだ。でも、もしあくまで信仰を捨てないのなら、この橋を渡るとそこから死への旅が始まるのだぞ」
 そう言って脅したのです。しかし彼らは喜んでその橋を渡りました。そして耳をそがれて引き回され、天国への旅──殉教を選んだのです。この橋は『もどり橋』と言われています。彼らはその橋を戻りませんでした。もどり橋を渡って彼らの天国への旅は始まるのです。
 彼らにとって地上で受ける肉体への苦痛よりも、主とともにいる喜びを失うほうがはるかに辛かったのでしょう。彼らにとって、主が殉教者として選んでくださったその選びを捨ててしまうことなど、考えることはできなかったのだと思います。彼らは主とともにいました。彼らはともにいてくださる神を選んだのです。彼らにとって、それは当たり前の選択だったのです。 
 私も結婚してまもなく、もどり橋に行ってみました。そして妻と2人でその橋を渡ったのです。それは私たち夫婦の神様への信仰の告白でした。「神さまの選びや召しを捨てて、もう決して戻らない」という告白だったのです。

二人が選び二六人に
 秀吉によって捕縛されたのは24人でしたが、長崎に向かう道中で26人になります。それは京都にいたオルガンティノ神父が、3人のイエズス会士の世話のためにと、ペトロ助四郎という青年に路銀を持たせて付き添わせたからです。彼は、わが身も顧みず奉仕に努めました。
 もう一人はフランシスコ会士で伊勢の大工であったフランシスコ吉で、彼はフランシスコ会士をはじめ24人の殉教者たちが、京都、大坂、堺の町々を引き回されたときから、長崎に護送される道中までもずっと彼らを慕い続け、身の回りの世話をしていたのです。
 この2人は道中のどこかで役人の縄を受けています。おそらく強欲な役人たちが、彼らの財布の路銀に目をつけたのでしょう。しかし彼らは殉教の恵みを受けることになったことを喜んで、むしろ進んで縄を受け、もっていた路銀を差し出したようです。
 もしかすると、彼らのほうから自分たちも殉教者の仲間に加えられるように、執拗に願ったのかもしれません。事実、そのように書いてある書物もあります。いずれにしても、この2人にとっても殉教は喜びであり、彼ら自身の選びだったのです。
 下関についたときには、殉教者たちは26人となり、この2人──ペトロ助四郎とフランシスコ吉──も囚人になっていたのです。しかし彼らの顔はきっと輝いていたでしょう。主とともにいる喜びと天国への希望に燃えて・・・・・・。
 26人となった殉教者の一行は、大坂から長崎までの約800キロにわたる長い距離を、ほとんど陸路で旅を続けました。冬のさなかでもあり、道はぬかるみ、非常な難渋をき極めたようです。その苦しみを和らげ、大きな慰めとなり励ましとなっていたのが、最年少で12歳のルドビコ茨木少年でした。彼は生来利発ではありませんでしたが、長崎への旅の道中でも、いつも明るく朗らかでとても元気のいい少年でした。

少年ルドビゴ茨木
 2月1日に、唐津湾に遠からぬ村の山本で、殉教者の一行は、寺沢半三郎に引き渡されました。半三郎は唐津城主寺沢広高の弟であり、処刑の執行責任者である長崎奉行の職にありました。 
 彼は名簿と囚人とを照合して受け取りましたが、そのとき彼の心は2つのことで痛んだのです。囚人の中に彼の友人のパウロ三木と3人の少年がいたことでした。とりわけ、元気でいたいけな12歳のルドビゴ茨木を処刑にしなけらばならないと思うと彼の心は重たくなりました。
 それで彼はルドビゴに言ったのです。「お前の命は私の掌の中にある。もし、私に仕える気があれば、お前を助けてつかわそうぞ。私の養子になれ」
 ルドビゴ少年は答えました。「私はベトロ・バブチスタ神父(26人のリーダー)に従いまする」
 それを聞いた神父は、「キリシタンとしての生活が許されるなら、喜んでそれに従いなされ」と言いました。それで、ルドビゴ少年は半三郎に答えました。
 「ありがとうございます。それでは養子にさせていただきまする。ただ一つだけお願いがあります。キリシタンとしていまのままの信仰を持ち続けられるならば・・・・・・。」
「キリシタンを捨てることが条件だぞ。それ以外のことは何でも許してやろう。大目に見る。しかし今のままの信仰ではだめだ。俺の養子になれば、あともう50年は生きられるぞ。おいしいものも食べられる。きれいな服も着れる。そのうえ、刀を差して武士になり、大名にもなれるぞ」
 半三郎は何とかしてルドビゴ茨木を助けようと言いました。
 しかし、ルドビゴ少年は半三郎の目をしっかりと見てこう言いました。
「そうしてまで私は生きのびたいとは思いませぬ。なぜなら、終わりなき永遠の命を、たちまち滅びるつかの間の肉体の命とは代えられないからです。
 御武家さま、あなたのほうこそキリシタンにおなりになり、これから私が参りますパライソにおいでなさるのが、ずっと良いことです。あなたもキリストを信じて、私と一緒に天国にまいりましょう」
 私は何度か、この12歳のいたいけなルドビゴ少年が神を選んだ山本の村へ、足を運びました。山本の村を流れている川の堤防に腰掛けながら、天を見上げて祈っていると、深い神のご臨在がいつも注がれてきます。
 この少年の目は朽ちることのない天に向けられていたのです。彼は天がどれほど確かな報いであるかを知っていたのです。だからこそ彼は地上のどんな誘惑にも動じませんでした。ごちそうにもドレスにも長寿や大名という肩書きにも・・・・・・。そう、彼は確かに知っていたのです。天国の報いの確かさを。
 
天国
 ルドビゴ茨木は刑場である西坂の丘に着いたとき、自分がかかるために用意された十字架に走り寄り、それを抱きしめて頬ずりし、口づけしたのです。そして十字架の上にかけられたとき、かたわらで十字架にかけられていた13歳の少年アントニオとともに、高らかに詩編113篇を、歌ったのです。
「子らよ。主をほめたたえまつれ」と(新改訳は、主のしもべたちよ)。
 そのとき西坂の丘に天国が降りてきました。いままで見せしめのために極悪犯罪人がいつも殺されていた苦しみと悲しみとの地獄の場所に、天国が降りてきたのです。
 このときのことはまた来月号以降で詳しく書くことにしましょう。 
 第3回 日本26聖人A イザヤ木原真(主の十字架クリスチャンセンター長崎教会牧師)
 いまから8年前の1988年の5月に私たち夫婦は長崎に遣わされてきました。
 5月15日に東京で按手を受け、臨月だった妻とともに、京都まで新幹線で行き、そこから、26聖人の足跡をたどって長崎まで来ました。
 私たちは、まず京都でもどり橋を渡り、そこでしばらく祈りました。そして再び新幹線に乗り、京都から大坂、そして兵庫、明石、姫路、さらに岡山、尾道と、彼らの足跡を追いかけ、ついに三原につきました。私たちはそこで降りて一泊したのです。
 ここは殉教した26聖人の一人であったトマス小崎がお母さんに手紙をしたためたところです。彼はまだ15歳の少年でしたが、48歳の父ミカエル小崎とともに殉教したのです。伊勢生まれの弓師であった父のミカエル小崎とともに、彼は西坂の丘で十字架にかけられて処刑されるのです。

トマス小崎の手紙
 「母上様、神のみ恵みに助けられながら、この手紙をしたためます。罪標に記されている宣告文にあるように、パードレ以下私たち二十四名は、長崎で十字架につけられることになっています。どうか私のことも、父上ミカエルのことも、何一つご心配くださいませんように。パライソ(天国)で母上様とすぐにお会いできるとお待ちしております。
 たとえパードレ様がいなくても、臨終には罪科を心から熱心に悔い改め、イエス・キリストの幾多のみ恵みを感謝なされば救われます。この世ははかないものでありますから、パライソ(天国)の永遠の全き幸福をゆめゆめ失わぬようにお心がけください。人が母上にいかなることをしようとも、忍耐をし、かつすべての人に多くの愛をお示しください。
 それからとりわけ弟マンシォとフィリポに関しては、彼ら二人を異教徒の手にゆだねることのないように、よろしくお取り計らいください。私は母上様のことを我らの主にお願いし、おゆだねいたします。母上から私の知っている人々によろしく申し上げてください。
 母上様、罪科を悔い改めることを忘れぬよう、再び重ねてお願い申し上げます。なぜなら悔い改めだけが唯一の重大なことですから。アダムは神にそむき、罪を犯しましたが、悔い改めとあがないによって救われました。
陰暦十二月二日  安芸国三原城の牢獄にて 」

 1597年1月19日の夜、三原城の牢獄で、15歳の少年トマス小崎は、深夜に見張りの目を盗んで涙ながらに、この別れの手紙を母マルタに書いたのです。しかし囚人として護送されているので母に届ける術はありませんでした。彼は父ミカエルにこの手紙を渡します。父ミカエルはそれを肌着の下に身につけました。殉教の後、父ミカエルの懐から血に染まったこの手紙を、ポルトガル人が発見したのです。
 15歳の少年の心は、自分の命ではなく、愛する母と弟たちに向けられていました。彼は自分と父がもう間もなく死を迎えることに関しては何の恐れも心配もなかったのです。彼はむしろ喜んでいました。天国に対してはっきりとした希望と確信を持っていたからです。けれども残された母とまだ幼い弟のことが彼の心をよぎったことでしょう。しかし彼はその母と弟も主の御手にゆだねて主を信頼しました。
 私は新幹線の三原駅のすぐそばにある三原城跡にたたずみながら、しばらく祈り、主に聞きました。この15歳の少年の中にある、主への信仰と天国への希望は、いったいどこで育まれ、培われてきたのでしょうか。そのとき主は答えをくださいました。
「それは、家族である」と。

家族
 彼らの家族には神の愛が注がれていました。主への信仰を中心とした神の愛があったのです。彼らは尊敬し愛し合っていたのです。しかも主のためには自らの命を捧げて家族を主にゆだねるほどの信仰でした。また、たとえ家族のだれかを失っても、彼らは主を信じ続けました。主を愛し続けました。彼らは天国で再会できることを知っていたからです。彼らはこの地上では旅人であり、寄留者であることを証ししたのです。
 このような信仰の家族が、かつて日本にあったのです。これは驚きでもあり、希望でもあります。主は再びこのような家族を、この国に起こし始めておられるのではないでしょうか。終末のリバイバルに向けて、迫害と殉教の時代に備えて、主はこのような家族を再び日本に建て上げておられるのです。
 
険しい峠
 私たち夫婦は、三原からさらに下関、博多を通過して、ルドビゴ茨木が神を選んだ山本村に行きました。そこで祈ったあと、唐津で宿をとりました。翌日、単線の汽車とバスに揺られながら伊万里、武雄、彼杵と旅を続けました。
 26人の殉教者たちもさすがにこれまでの長旅の疲れが出てきました。もう間もなく殉教する長崎に入ろうとする直前に、もっとも厳しい辛い道が待っていました。山本から彼杵に至るまでの道は峠となっていて、とても険しい道が続くのです。またほとんど人とすれ違うことも見かけることもない道でした。彼らの肉体は弱っていましたが、静かに黙々とその苦しい登り道を進んでいったのです。
 山を越えて峠にたどり着いたとき、眼下に大村湾が一望できました。彼らはそこで休息しました。その足もとには湖のように静かな大村湾の美しい風景が広がっていました。彼らはそのすばらしい景色に感動し、それまでの疲れや苦しみが消えていくのを覚えました。
 地上でさえ、このような苦しい登り道のあとに、こんなにすばらしい景色があり、こうして慰めを与えてくれるならば、ましてこの殉教の旅を終えて天に帰るとき、どんなにすばらしい風景が私たちを迎えて待っていることだろう。彼らはそう思いながら、再び喜びと賛美が内側から湧いてくるのを感じたことでしょう。

ペトロ・バプチスタの涙
 峠を下って彼杵の港に彼らは着きました。2月4日の夕方のことです。一同が平和な景色を眺めながら低い声でこれまでの出来事などを話し合っているとき、26人のリーダーであるペトロ・バプチスタ神父は少し離れて岩の上に腰を下ろしていました。そして静かに黙想していたのです。しばらくすると彼の目から涙が止めどなく流れてきました。
「いまは、死地へ向かって進んでいる。イエズス・キリストを伝えたがために自分は死ぬ。これはこの上もない喜びである。しかしこの国の宣教は始められたばかりなのに、それを受け継ぐべき同僚までもがともに死んでいくのだ。この国の宣教の働きはどうなるのだろう。自分が全身全霊を捧げたこの働きがガラガラと崩壊していく」
 彼が涙を流したのは自分の命のためでも、自分の生まれ育った国や家族のためでもなかったのです。
 彼はこの国のために、そうです、私たちの国、この日本のために泣いたのです。私たちの国、この国、この日本の将来を思って泣いたのです。日本のキリシタンがこれから通るであろう苦しみを思って泣いたのです。
 かつて日本にこのような宣教師がいたのです。死を前にして、殉教を前にして、自分のことや自分の母国のことも、そこにおいてきた家族のことも忘れて、この日本の宣教の働きのために涙を流さずにはおられなかった宣教師が。
 日本に必ずリバイバルがやってきます。神はペトロ・バプチスタ神父の涙をおぼえてらっしゃいます。彼の祈りを心に刻んでおられます。そしてその祈りの答えとして、私たちを用いてくださるのです。
 私は何度も彼杵に行きました。そこに行くたびに主は私に語られます。「あなたは彼の涙の答えである」と。
 これから主がこの国になしてくださる終末における大きなリバイバルの働きは彼らの涙の祈りの答えでもあることを私たちは覚えているべきでしょう。そして、かつて私たちのこの日本のために、国も家族を捨てて福音を携え宣教に来て、喜んで殉教していった人々(宣教師)がいたことを私たちはしっかりと心に覚えるべきです。
 26人の殉教者たちは彼杵から凍てつくような夜の海を3隻の何の覆いもない小舟に分乗させられて時津まで行きました。しかも6人の外国人神父以外は、首に縄をかけられ、その縄で両手を後ろ手に縛られていたのです。

ゲッセマネ
 時津に着いたのは夜の11時頃でした。時津はキリシタンの町です。護送役人たちは、万一殉教者たちを奪い取られはしないかと心配し、警戒しました。それで26人の殉教者たちは上陸することも許されず、後ろ手に縛られたまま居心地の悪い舟の中でうずくまり、夜を明かしたのです。殉教者たちはこの夜ほとんど眠らないまま過ごしたようです。この夜が彼らの地上での最後の夜となりました。彼らにとって、この夜はまさにゲッセマネでした。
 時津の港に立ちながら、湾を眺めて祈っていると、私は彼らの息づかいが聞こえてくるような気がします。一ヶ月近くにわたる800キロの旅も明日終わろうとしていました。彼らの肉体は確かに弱り果てていたでしょう。けれども彼らの心には、主イエスへの愛と天国への確かな希望がありました。彼らの主に対する信仰は決してこの寒い凍てつくような夜も失われることなく燃えていたことでしょう。
 翌2月5日の夜明けに、彼らは殉教する西坂の丘に向かって出発しました。ついに彼らの天国への勝利の凱旋の日が来たのです。

最後の願い
 時津から西坂まではキリシタンの町を通っていくので、役人たちは彼らを速く歩かせました。そして浦上の小さな癩病院で休憩をとりました。
 彼らは殉教するにあたって3つの願いを持っていました。それは「イエズス・キリストと同じ金曜日まで刑の執行を延期してほしい」(予定では2月5日の水曜日でした)「処刑される前に長崎のパードレのだれかに告白する余裕を与えてほしい」「そして全員ミサにあずかり、聖体拝領を受けたい」ということでした。
 これらの願いをパウロ三木が、唐津で寺沢半三郎に頼んだときには、半三郎は快く許可したのです。半三郎とパウロ三木は級友であったので許可したのです。
 ところが秀吉の勘気に触れることをいつも恐れている半三郎は、ここまで来て約束を撤回し、「処刑を2月7日金曜日まで待つことはできまい。今日5日水曜日、直ちに執行する」「処刑前にミサにあずかり、聖体拝領をする許可は与えない」「ただしイエズス会の3人(パウロ三木・ディエゴ喜斎、ジョアン草庵)にだけ告白する許可を与える。そのために神父を一人浦上の癩病院まで行かせるがよい」と言いました。
 彼らの最後の願いは聞き届けられませんでした。群衆を恐れ、自分の立場を守るためにイエスを群衆にわたして十字架につけたピラトのように、半三郎は秀吉を恐れ、自分の立場を守るために、殉教者たちの願いを退けたのです。
 しかし26人の殉教者たちが失ったものはなにもありませんでした。彼らは西坂の丘で、イエス・キリストご自身にお会いするために勝利の凱旋をしたのです。
 第4回 日本26聖人B イザヤ木原真(主の十字架クリスチャンセンター長崎教会牧師)
  1597年2月5日(水)、ついに26聖人が殉教する日が来たのです。
 京都から始まった彼らの旅は、もうまもなく終わろうとしていました。最後の夜を過ごした時津をあとにして、夜明けとともに彼らは歩き始めました。処刑場の西坂の丘を目ざして歩いたのです。
 途中、ほんのひととき浦上にある癩病院で休憩の時を持ちました。そこにはイエズス会のパシオ神父が待っていました。彼は3人のイエズス会士の告白を聞くために会いに来ていたのです。
 まず、修道士(イルマン)であるパウロ三木が告白し、その後、ディエゴ喜斎とヨハネ五島(ジュアン草庵とも言われる)が告白しました。この2人の告白が終わるとパシオ神父は彼らを正式にイエズス会に入会させました。このときディエゴ喜斎は65歳。殉教者の中で最年長でした。一方ヨハネ五島はキリシタンの両親の元に生まれた弱冠19歳の青年でした。

父子の別れ・・・ヨハネ五島
 ちょうどそのとき、そこへヨハネ五島の父親が最後の別れを告げに来ていました。彼は父に向かって言いました。「お父上、魂の救いより大切なものは何にもありませぬ、このことをよくお考えになってくださいませ。それについて決して油断せず、怠らぬようくれぐれもお頼い申しまする」
「せがれよ。そのとおり、決して怠りはしないから、おまえは元気いっぱい、力に満ちて、喜んで死んでいきなさい。お前は、神さまへの忠節のために死ぬのだから、喜んでお前の死を見届けよう。私もお前の母上も必要とあれば主が思召しになるときに、神の愛のためにキリスト様にこの命をささげる覚悟も用意もできています」
 自分が殉教しようとしているときに、魂の救い、宣教のことを父にゆだね、願ったヨハネ五島、そしてそれをしっかりと受けとめて応答する父、彼らはともに宣教のことを考えていました。父はいま、殉教を前にして魂の救いのことを語る息子の信仰を見て、とても満足して喜んでいました。いままで祈りと愛をもって育んできた息子の信仰は、神の与えてくださった殉教という試練の中で開花したのです。これはすばらしい祝福でした。
 私はクリスチャンホームで育てられました。そしていま、3人の息子を持つ6児の父になろうとしています。ですからこの父子のやりとりを見ながら特別な感動を覚えます。最後まで救霊に燃え続けていた19歳の青年ヨハネ五島、そして喜んでその息子を天に送り、自分も宣教に行き、殉教の備えをした父。たとえ、自分の愛する子を失おうとしても、2人の間の愛と、主への信頼、信仰は崩れなかったのです。私も彼らの主に対する心を受け継いでいきたい。息子としても、父としても。そう思わずにはいられないのです。
 役人のかん高い声が響きました。出発の命令が下ったのです。再び彼らは、西坂の丘を目指して歩き始めました。

二十六の十字架
 西坂の丘には26の穴が掘られ、その一つ一つの前に真新しい26の十字架が1本ずつ置いてありました。それらは注意深く削られ、入念に作られていました。十字架の高さは、ほとんど2メートル以上もあり、両腕を止める長い横木と、それよりやや短い足をおさえる横木がついていました。その一つ一つの十字架に5つの鉄枷がついていて、1つは首を、2つは手首を、残りの2つは足首を十字架に固定するようになっていました。またその中間に止め木があって殉教者が腰かけるようになっていました。
 午前9時半、26人殉教者たちは西坂の丘に着きました。彼らは自分の十字架を示されるや、小躍りしつつ走り寄り、自分のつけられる十字架を抱きしめたのです。
 その中には26人の中で最年少の少年12歳のルドビゴ茨木もいました。彼らは佐賀の山本村で、半三郎の「養子になれ」との申し出を断り、神さまを選んでこの西坂の丘に来たのです。ルドビゴは西坂の丘に着くと、そこにいた役人に聞きました。
「私のかかります十字架はどれですか」役人は彼を見て、「おまえのかかる十字架はあそこにある一番小さいあの十字架だ」と指さしました。するとルドビゴ茨木はにっこりほほえんで駆け寄り、その十字架を抱きしめて頬ずりし、口づけしたのです。
 刑執行人たちは彼らを十字架につけ始めました。手足と首を鉄枷で止め、腰をひもで結んで体を固定させ、ぴったりと十字架につけました。そして掘ってあった穴のふちに十字架の根本を当てて徐々にすべらせ、ついに十字架は穴に立てられたのです。そして26本の十字架が西坂の丘に立てられました。26人の殉教者たちとともに・・・・・・。

両親をゆだねて・・・アントニオ
 佐賀の山本村で神を選んだルドビゴ茨木とともに並んで十字架につけられ殉教したのが、アントニオという13歳の少年です。彼の生まれ故郷は長崎でした。彼は父が中国人でした。両親はイエス・キリストをまだ信じてはいなかったのです。それで政府の役人たちは処刑にするときに、アントニオの十字架の足もとに、両親がいくことを許したのです。彼らは何とかしてキリシタンの信仰を捨てさせたかったのです。アントニオの両親は叫びました。
「親に先立つ不幸があるか。お願いだから降りてきてちょうだい。アントニオ、お願いだからキリストを捨てて降りてきてちょうだい」
 必死になって半ば狂乱しながら十字架にしがみついて叫びました。しかしアントニオは両親に向かって言ったのです。
「お父さん。お母さん。喜んでください。私はこれから天国にいくのです。お父さん、お母さん、泣かないでください。私は先に天国に行って、お父さん、お母さんのおいでになるのを待っています。ですから、お父さんもお母さんもイエスさまを信じて、私のあとから天国に来てください。」
 そう言って隣にいたルドビゴ茨木とともに詩篇113篇を高らかに賛美したのです。「子らよ。主を誉めたたえまつれ」と。
 銀の鈴のような声が西坂の丘に響き渡ります。極悪犯罪人の死刑の場所が、いまや天国から降りてきた主の御臨在の中に包まれていました。見物に来ていた4000人とも言われている人々は彼らに会わせてともに賛美し始めました。
 「ハレルヤ」の大合唱が起こりました。死刑執行の地獄となるはずの場所に天国が現れました。そこには悲しみはありませんでした。勝利者として天に凱旋していく少年たちの喜びがあふれていたのです。そしてその喜びは、そこにいた人々の内にもあふれていったのです。
 アントニオは天に顔を向け、高らかに賛美していました。アントニオ少年は信じていたのです。神さまが必ず両親に報いてくださるということを。
 私たち夫婦が長崎に遣わされてきたとき、まず始めにこの西坂を訪れ、祈りました。そのときに、私は妻にアントニオの話をしたのです。妻の両親は当然まだイエスさまを信じてはいませんでした。妻は一人娘でしたが、私と結婚することになって両親の元にではなく、主の示される宣教地である長崎に来ることになったのです。妻は私の話を聞いて言いました。「アントニオの気持ちが少しわかるような気がする」と。
 アントニオは知っていました。たとえいま両親の心を引き裂いたとしても、彼にできる最高の親孝行は神に従うことであるということを。彼が神に従ってこの殉教という十字架を受け取るなら、主ご自身が必ず、両親に報いを永遠の命を与えてくださると信じていたのです。彼は一時的な地上での和解よりも、永遠の天の報いを求めていたのです。

赦しながら・・・パウロ三木
 西坂の丘に少年たちの賛美の声がこだまします。その中でイエズス会士の修道士であったパウロ三木が、十字架の上から説教を始めました。彼は京都で捕らえられてからこの西坂に着くまで人々に福音を語り続けていました。
 彼の罪状書きにはこう書いてありました。
 「この者どもはフィリピン、ルソンの使節と称し、日本に来たり・・・・・・」
 それを見てパウロ三木は大声を上げて叫びました。
 「ここにおられるすべての方々、私の言うことをお聞きください。私はフィリピンから来たルソン人ではございません。れっきとした日本人でございます。そしてイエズス会の修道士でございます。私はなんの罪も犯したわけではございません。ただイエス・キリストの福音を宣べ伝え、その教えを広めたという理由だけで殺されるのです。
 はばからずに申し上げます。確かに私はイエス・キリストを宣べ伝えました。そしてこの理由で殺されるのを私は喜んでおります。神さまから与えられたこの殉教のお恵みを心から神さまに感謝申し上げます。人が死に臨んでどうして偽りを申しましょう。私はいま、死に臨んで真実のみを申し上げています。
 私の言うことをどうか信じてください。この方イエス・キリストによる他以外に救いの道のございませんぬことを確信して申し上げまする」
 人々はパウロ三木の語る力強い激しい言葉に引き寄せられていきました。
 さらにパウロ三木は、死刑執行の責任者半三郎の方を見やり、また役人や執行人を見ながら、はっきりと語り続けました。
 「私は太閤さまを赦します。半三郎を赦します。役人を赦します。いままさに私を槍で殺そうとしている執行人を赦します。なぜなら、イエス・キリストが私の罪を十字架で赦してくださったからです。
 イエス・キリストはあなたの敵を愛し、迫害する者のために祈れと言われました。ですからこの死罪について太閤さまはじめお役人衆に、私はなんの恨みも抱いてはおりません。ただ私の切に願いまするのは、太閤さまを始めすべての日本人がイエス・キリストを信じて救いを受け、キリシタンとおなりになることでございます」
 死を前にして、パウロ三木は目の前にいる人々の救いを願っていました。彼の心は自分自身の命のことではなく、彼を殺そうとしている人々の救いにあったのです。日本にこのような殉教者がいたのです。十字架につけられても赦し続け、十字架の福音を宣べ伝え続けた伝道者が・・・・・・。
 日本に必ずリバイバルがやってきます。
 パウロ三木の語った御言葉は決してむなしくこの長崎、そして日本に落ちることはないでしょう。これから始まるこの地での大いなる収穫のリバイバルの中で、主は報いてくださるのです。いま生きている私たちを用いて・・・・・・。
 西坂の丘に子供たちが歌う詩篇113篇の賛美とともに、天国が降りてきました。その中で彼らは十字架の赦しを聞いたのです。人々は感動していました。あの半三郎さえ泣いていたと言われています。けれどもそれは悲しみの涙ではなく、永遠の天の命に触れた感動の涙でした。
 このとき彼らの殉教を通して多くの人々がキリストに立ち返ってきたと言われています。
 第5回 日本26聖人C イザヤ木原真(主の十字架クリスチャンセンター長崎教会牧師)
  
殉教四百年祭

 いま、長崎が静かに燃え始めています。
 来年の1997年2月5日は26聖人が殉教してからちょうど400年になります。そこでカトリック教会では日本26聖人殉教四百年祭が催されることになりました。私もいまから楽しみにしています。
 そしてそれにもまして私は、主ご自身に、このとき何かをしてくださるのではないか、何かを始められるのではないかと、ひそかに期待しているのです。
 というのは、聖書を見ると、エジプトに逃れたイスラエルの民が出エジプトをして、再びカナンの地であるイスラエルに帰ってきたのは約四百年(厳密にいえば430年)後だったからです。主はアブラハムに前もって400年と約束を語られていました。(創世記15章13−14節)。
 同じように日本で初めての殉教から400年たったこの時に、主が再び日本の民を顧みてくださり、かつて家族ごと村ごと国ごとキリシタンとなったように、多くの人々がキリストに立ち返ってくるリバイバルが、この長崎の地に、そして日本の国に始まってくるのではないでしょうか。
 私は主に期待しています。26聖人たちとそれに続く殉教者たちの血の報いがこれから始まってくるのだと信じているのです。
  
西坂の丘で
 それでは今月も、先月号に続いて日本26聖人の殉教を通して主の御声に耳を傾けていきましょう。
 1596年の12月に京都、大坂で捕らえられ、翌1597年の1月3日に耳そぎをされて始まった彼らの殉教への旅もついに終わるときがきました。
 1597年2月5日水曜日、西坂の丘に26本の十字架が立ちました。殉教者たちはキリストと同じように、その十字架につけられていました。釘打たれたわけではありませんが、彼らの手足はしっかりと鉄枷で止めてありました。
 大名になる誘いを断って神を選んだ12歳のルドビゴ茨木は詩篇113篇を賛美しています。その隣で13歳のアントニオが彼とともに銀の鈴のような声で賛美しています。彼はまだイエスさまを信じていない両親が「十字架から降りてきて」と絶叫したときに「喜んでください」と言ったのです。
 パウロ三木は十字架の上で最後まで福音を語りながら天国の希望とキリストの十字架による赦しを語り続けています。
 集まってきた4000人に及ぶ人たちは少年たちとともに主を賛美しつつ十字架の上から語られるイエス・キリストの福音に聞き入っていました。もはやそこは処刑場ではなく、そこには天国が降りてきていました。
 そして処刑が始まったのです。

最初の殉教者・・・フェリペ
 26人のうちで最初に槍を受けて殉教したのは、メキシコ人のフランシスコ会修道士フェリペでした。
 彼のつけられていた十字架の支え木が下に寄り過ぎていたので全身の重みが鉄の首枷にかかり、彼は声を出すこともできず、窒息しそうになっていました。そこで半三郎は執行人に合図をしました。2人の執行人は、このメキシコ人を槍で突き、苦しみを断ちました。十字架の上でけいれんが起こり、開かれた胸から2つの血の泉が噴き出しました。ついに殉教の血が流されたのです。
 フェリペはイスパニア(スペイン)人の両親のもとでメキシコで生まれました。若き青春時代は放縦な生活をしていました。一度はどこかに神の責める声を聞き、フランシスコ会修練院に入会しました。しかし、すぐに元の生活に戻ってしまいました。やがて彼はフィリピンにわたり、そこでついに決心をしてマニラのサン・フランシスコ修道院に再び入会を願います。院長はその申し出を熟考した末に、彼を受け入れることにしました。
 それから2年たったときに修院長はフェリペに司祭叙階(司祭になるための任命按手式)のために再びメキシコに戻るように命じました。そのときに彼の乗ったガレオン船「サン・フェリペ号」がメキシコに向かう途中に難船し、日本の土佐沖に漂着したのです。
 こうして日本に最後にきたフェリペが、しかも日本に来るつもりではなかったフェリペが、日本で最初の殉教者となりました。時にフェリペ24歳。彼は日本に来てまだ4ヶ月しかたっていませんでした。
 主はフェリペをこの日本の最初の殉教者に選ばれました。彼は決して優等生ではありませんでした。いえそれどころか本当は司祭になれなかったのかもしれない落ちこぼれだったのです。その彼を主は選ばれたのです。彼が選んだのではありませんでした。むしろ彼にとって強いられた十字架でした。彼には自分で選ぶ余地はなかったからです。それでも彼は喜んでいました。彼はすべてのことの中に神の御手を見ていたからです。
「自分のような本来司祭になる資格さえないようなものが殉教の恵みに預かることができるのは、ただただ主イエス・キリストの深いお恵みによるものです。サン・フェリペ号が難船したのは、この私を救い、殉教の恵みに入れるため、主が許されたのです」
 彼は自分の人生に許されたすべてのことを心から感謝して受け入れたのです。メキシコに向かっていたのに、日本に難船したことも、司祭叙階の代わりに、刑執行人に渡されたのも、すべての中に彼は主を認め、主の御手を見ていたのです。
 神の選びというのは不思議です。日本で最初のキリストのために命を捧げたのは、日本人ではなく、外国人(メキシコ人)だったのです。しかも日本に来るつもりではなかったものをあえて神は選ばれました。6人の外国人神父の中で、彼だけは自分でこの国に来ることを選んだのではなかったのです。もちろん人から強制されたのでもありません。神ご自身が彼を選ばれ、この国の殉教者として召し出されたのです。

強いられた十字架

 フェリペのことを思うたびに私は一人の人を思い出します。それはイエスさまの十字架を無理矢理に背負わされたクレネ人のシモンのことです。
 シモンは田舎からエルサレムに過ぎ越しの祭りを見るために出て来ただけでした。ところがちょうどそのとき、イエスさまが十字架を背負って、ビア・ドロローサを歩いていたところに出くわしてしまったのです。ローマ兵が彼の肩を槍で叩いたとき、彼はもはや逃げることはできませんでした。もし拒めば殺されるからです。彼にとってイエスさまの十字架を背負っていくことは強いられたことだったのです。けれどもそれは主の彼に対する深い憐れみでした。
 彼は十字架を背負いながら、カルバリの丘に向かっていくイエスさまのすぐ後ろを歩いてついていったのです。十字架に向かうイエスさまの一番そばに彼はいたのです。弟子たちは逃げていきました。けれども彼は十字架を背負いながらイエスさまが十字架につけられたゴルゴタにまでついていきました。そして自分が背負ってきたその十字架につけられた方を彼は見たのです。十字架の真下で・・・・・・。
 彼の前をよろけながら歩いていたこの方、そしていま、十字架にかけられながら「父よ。彼らを赦したまえ」ととりなしておられるこの方。彼にはこのとき、はっきりとわかりました。この方こそ救い主イエス・キリストなのだ、と。そのとき彼は救われたのです。そしてこの後、彼の家族も救われました。彼の妻と子供のルポスはパウロから「主にあって選ばれた人」とあいさつをいただくほどの信仰者となったのです。
 これが主の方法でした。これがクレネ人シモンに対する主の計画だったのです。
 フェリペもクレネ人シモンも主に愛されていました。主は彼らの弱さも強さもすべて知っておられ、それぞれに最善の方法で現れ、導かれたのです。彼らにとって強いられる十字架こそ、救いの完成への恵みの道だったのです。
 フェリペはいまも天で私たちのこの国、日本のためにとりなしていることでしょう。主は彼の祈りに答えてくださいます。
 これから始まる日本のリバイバルの中で、主はご自身の憐れみによってフェリペやクレネ人シモンのように、たとえ自分の望みや計画とは全くちがう十字架を強いられても、その中に主の御手を認め、喜んで従っていく真のしもべたちを起こしていかれるのです。そしてわたしたちもたとえ弱く不十分であっても、主が強いられた十字架を逃げずにしっかりと受け取ってついていくならば、主はこの終わりの時に用いてくださるのです。
 
処刑執行

 フェリペの処刑が終わると、半三郎は4人の執行人を呼びました。彼らは槍を持ち2人づつ一組になって十字架の両端へと行きました。そして東の方の1番目の十字架と西の端の26番目の十字架との下に槍を構えて立ちました。槍の鞘を払い、彼らは合図を待ちました。合図が下ると、かけ声もろとも槍は殉教者の胸の中で交錯しました。こうして東の1番の十字架の上ではフランシスコ吉が、また西の26番の十字架では尾張生まれの49歳の伝道者パウロ鈴木が、槍を×形に受け、鮮血とともに殉教したのです。
 執行人は十字架から十字架へと東と西の端から順番に合図とともに突き刺して処刑をしていきました。勢い余って槍の穂先が背中に出るものもありました。ほとんどの殉教者たちは鮮血とともに瞬時にして息が絶えました。しかし不十分と思われたものは、喉をもう一突きされ、とどめを刺されました。
 最年少の12歳のルドビゴ少年は槍を受けたとき、「天国(パライソ)、天国(パライソ)」と言って目を天に向けながら、殉教したのです。トマス小崎は20番目の十字架で、4番目の十字架につけられていた父ミカエルとは東西に遠く離されていましたが、ほとんど同じ頃、槍を受けて殉教したのです。
 こうして2人ずつ東西に分かれていた執行人が中央で出会う頃には26人の処刑は終わろうとしていました。
 けれども最後まで残された人がいました。それはペテロ・バプチスタ神父だったのです。

最後の殉教者・・・ペテロ・バプチスタ

 最後に殉教したのは、26人のリーダーのペテロ・バプチスタ神父でした。彼を最後にしたのは、役人たちが、25人の仲間たちが無残に刺し殺されて死ぬのを見れば、彼が途中で信仰を捨てるかもしれないと思ったからです。
 しかし結果は逆でした。彼は26人がだれ一人信仰を捨てることなく、全員最後まで主を愛して殉教することを願っていました。彼は全員が喜んで槍を受け、天に帰っていくのを見届けることができたのです。いまや彼は彼の霊の子供たちや同僚たちとともに天に帰るため、喜びながら槍を受けることができるのです。彼は天を見上げて、くちびるを動かしてキリストが祈られたのと同じように最後の祈りをしました。「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と。そのとき、25人の血で染まった槍が彼を突き刺したのです。
 26人の処刑は終わりました。殉教者たちの残していった天の喜びがそこにはいまも残っています。
 キリストの十字架のもとにいたローマ兵が「この方はまことに神の子であった」と気づいたように、この後、殉教に加わった役人のうち一人が回心したといわれています。しかしそれがだれなのかは定かではありません。もしかすると半三郎だったかもしれませんが・・・・・・。
 第6回 日本26聖人D イザヤ木原真(主の十字架クリスチャンセンター長崎教会牧師)
  人若し我に従はんと欲せば 己を捨て十字架をとりて我に従ふべし(マルコ8章)

 26聖人が殉教した西坂の丘に、いまは彼らのレリーフが建っています。レリーフには26人の殉教者が並んで彫られており、そのちょうど真ん中の下の部分に7本の十字架とともにこの御言葉が刻まれているのです。私が西坂の丘に立って祈るたびに、この御言葉は私の心に語りかけてきます。
 御言葉には力があります。この丘に立って祈るとき、この御言葉は静かに、でも非常に力強く私に迫ってくるのです。それはきっと26聖人がこの御言葉に生きて、証しを立てたからなのでしょう。彼らの生涯はまさにこの御言葉の成就だったと言えるのです。昨年の9月号から12月号まで4回にわたって26聖人の足跡をたどりながら、京都での捕縛から長崎までの殉教までの話を書いてきました。5回目になる今回は、26聖人について書く最後になります。今回はこの御言葉を通して彼らの生涯と殉教を見ていきたいと思います。そしてそこから主の語りかけを聞きたいと思います。

人若し我に従はんと欲せば

 26聖人が殉教することになった直接のきっかけはサン・フェリペ号の遭難でした。けれども時の権力者太閤秀吉が彼らに処刑を命じた原因はそればかりでなく、他にもあります。いくつか考えられますが、その一つはまちがいなく元仏教僧だった施薬院全宗(せやくいんぜんしゅう)の妬みと敵対心の諫言のためでした。また、ポルトガルとイスパニア(スペイン)の貿易競争から来る誹謗合戦の結果でもありました。
 26聖人たちは悪口雑言ありもしないことを言われたうえ殺されることになったのです。これは彼らにとっては十字架でした。しかし彼らはその殉教という十字架を喜んで受け取り、黙って縄を受けたのです。キリストがパリサイ人や律法学者たちの妬みによって十字架につけられたのと同じように・・・・・・。また、キリストが捕らえられたとき、祭司長たちと全議会による誹謗と偽証による不法な裁判において大祭司の前で黙っておられたように、彼らも妬みによって殉教という十字架につけられることを黙って引き受けたのです。
 私たちの日々の信仰生活においても同じようなことが許されることがあります。
 もちろんいまの日本の国内では殉教ということはないでしょうが、妬まれたり、ありもしないことを言われたりということは日常茶飯事です。そのようなとき、私たちは黙ってその十字架を受け取っているでしょうか。つぶやいてしまったり、恐れてしまったり、怒ってしまったりして、その十字架を投げ捨ててしまっていないでしょうか。十字架から逃げていないでしょうか、
 26聖人たちはキリストのように受け取ったのです。しかも喜んで・・・・・・。それができたのは彼らが「聖人」で特別だったからなのでしょうか。私は26聖人が特別な聖人だったからできたのだとは思えないのです。
 私は彼らを慕っています。彼らの信仰から学び彼らに倣いたいと思っています。とても彼らを尊敬しているのです。けれども彼らもやはり私たちと同じように弱さを持っている罪人だったと思うのです。ただ彼らは主に従いたいと心から願っていました。彼らは本当に主を愛していたのです。その愛と従いたいという心からの願いが、彼らを殉教にまで導いていったのでしょう。
 キリストの選ばれた弟子たちは、ガリラヤの無学な普通の人たちでした。けれども、彼らは主に呼ばれたときにすぐに従いました。同じように26聖人たちも主にすぐに従う心を持っていたのです。

十字架を負って

 彼らにとって殉教は確かに十字架でした。けれどもその十字架を喜んで彼らが負うことを選べたのは、それまでの日々の生活の中で彼らがすでに十字架を負っていたからなのではないでしょうか。だからこそ、たとえばマチヤスのように自ら進んで同じ洗礼名を持つ別人に代わって捕らえられることができたのでしょう。
 京都で捕らえられてから西坂の丘で殉教するまでのひと月の長崎への道は、彼らにさらに深く十字架を負うことを教えてくれたことでしょう。その道の中で彼らはさらにキリストに近づき、十字架の深みへと導かれ、喜んで殉教していったのです。彼らに許された殉教という十字架を負うために、主はひと月の備えのときを彼らに与えられたのです。
 キリストのそばに置かれた12弟子たちが、キリストと聖霊によって造り変えられていったように、彼らも殉教への道の中で神により近づけられ、変えられていったのです。
 長崎への道の途中で殉教者に加えられたペトロ助四郎とフランシスコ吉や、日本に来てわずか数ヶ月で捕らえられた殉教者の中に入れられたフェリペを見ているとそんなふうに思えてきます。

喜びながら・・・己を捨て

 はじめての西坂の丘に来て祈ったとき、私は驚きました。坂を登って西坂の丘にたどり着くと、そこには喜びがありました。天から注がれてくるような爽やかな明るい喜びがあったのです。それは私の中にあった暗い悲惨な殉教というイメージとはあまりにもかけ離れていました。そこにはとても深い主のご臨在があったのです。その日は小雨が降っていましたが、私が西坂の丘に立ち、心を主に向けて祈ると、喜びが内側からあふれてくるのです。主は語られました。「彼らは喜んでいた」と。
 確かに彼らは喜んでいたのです。役人の「養子になれ」との誘惑を断って自分の十字架に走り口づけした12歳の少年ルドビゴ茨木、十字架の足もとにすがりついて「降りてきて」と絶叫する母に向かって「喜んでください」と言った13歳の少年アントニオ、メキシコに行き司祭に叙階されるはずだったのに日本で十字架につけられることになったとき、「サン・フェリペ号が遭難したのはこの私が殉教の恵みに預かるために許されたのです」と言ったフェリペ。彼らはみんな喜んでいたのです。
 なぜ殉教という十字架を前にして、彼らは喜んでいることができたのでしょう。それらは彼らがもうすでに「己を捨て」、自分に死んでいたからです。彼らはもはや自分の命には生きていなかったのです。主がご自身の命の代価を払って与えてくださった永遠の命の中に彼らは生きていたのです。だから彼らは喜んでいました。
 特に京都で捕縛され、殉教が定まったときから、彼らの心はますますこの地上に対する執着や思い煩いから解き放たれて天につなぎ合わされていったことでしょう。
 長崎までのひと月の道の間に彼らの肉体は弱くされ、痛みや苦しみが襲うことがあったかもしれませんが、彼らの心は天の御国の喜びにますます満たされて、福音とキリストとのために殉教しなければならなくなったことを喜んでいたことでしょう。ちょうどキリストの御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜んだ使徒たちのように。
 私たちが喜んで十字架を負えないのは、きっとまだ己を捨てていないからなのでしょう。己を捨ててしまうなら、御国の喜びが十字架を負っているそのところに、いますぐにでもやってくるのです。 彼らは、己を捨てて、喜んでいました。ただ一つのことだけを除いては・・・・・・。

宣教 

 彼らは己を捨てて自分に死んでいました。でもそんな彼らにも、ただ一つの気がかりがあったのです。天に帰ることを心から喜びながら、この世に残していくまだ救われていない魂のことを思うと彼らの心は激しく痛みました。キリストへの迫害が始まったこの国の将来のことを思うと憂いがやってきました。
 それは死に対する恐れでも、この地上に対する執着や家族と離れることの悲しみでもありませんでした。彼らはこの日本の民の中にまだキリストを知らない者がいることに耐えられなかったのです。そして彼らに福音を伝えることができなくなると思うと、彼杵で涙を流したペテロ・バプチスタ神父のように泣かずにはいられなかったのです。
 パウロ三木は京都で捕らえられてから十字架のうえで最後の槍を受けるまでキリストの福音を宣べ伝え、十字架の説教をやめませんでした。彼は最後の最後まで魂を追い求めていたのです。
 19歳のヨハネ五島が最後に父と語ったことは魂の救いだったのです。15歳の少年トマス小崎は父と殉教するためにひかれながら2人の弟の救いのために母マルタに三原城から手紙を書きました。13歳のアントニオは十字架にすがりついて「降りてきて」と叫ぶ両親に「喜んでください」と天国を語り、救いを願いました。
 彼らの切なる願いは魂の救い、人々がキリストを信じて神のもとに立ち返ってくることだったのです。
 福音宣教、これこそが彼らの召しだったのです。彼らはこの召し─福音宣教の中に生きていました。そして福音宣教という召しに忠実に生きたときに殉教という十字架が彼らの前に置かれたのです。
 いままで彼らは妬みからありもしない悪口雑言を言われても黙して語りませんでした。しかしイエス・キリストの福音に関する限り、彼らはイエス・キリストの証人として口を閉ざすことはできなかったのです。たとえ命を失うとしても彼らは福音を宣べ伝えることを止めることなど考えられなかったのです。
 異邦人伝道に召されていたパウロが「私の同胞のためには、呪われた者となることさえ願いたい」(ローマ9章3節)と言った同じスピリットを彼らも持っていたのです。

リバイバル

 26聖人が自分の十字架をしっかりと受け取り、福音宣教に生き、そして西坂の丘で十字架につけられて殉教しました。その姿に西坂に集まった4000人とも言われる見物人たちは感動し、長崎に小さなリバイバルが起こります。クリスチャンはもとより、信仰がはっきりしていなかった人々やキリストを信じていなかった人までもが回心し、この後殉教していくのです。
 時の権力者太閤秀吉は長崎にいる多くのキリシタンたちの信仰を捨てさせるために、彼への見せしめのため26人を長崎まで連れてきて処刑したのです。けれども結果は秀吉の思惑とは全く逆になりました。
 26聖人たちは信じていました。主は必ず彼らの殉教の血に報いてくださると。彼らの死は決して無駄になることなく一粒の麦として後の日に豊かな実を結ぶと。
 西坂の丘には、いまも喜びが注がれています。天の御国から流れてくる喜びです。その丘に立って祈るたびに主は私に迫ってこられるのです。彼らが示した私への愛と従順、彼らが負った十字架、彼らの祈りと願い、それらは忘れられてはいない、その応えがこの時代に必ずやってくると。真に自分を捨て自分の十字架を負って私についてくる者たちに彼らのバトンは受け継がれ、そのものたちを通して応えは必ずやってくる、リバイバルは必ず間もなくやってくると。
*          *
 昨年の9月号から5回にわたって26聖人のことについて書いてきましたが今回で終わりにします。次回からはその後の殉教者についてさらに見ていきたいと思っています。26聖人のことについて書くにあたって、『日本キリシタン殉教史』(片岡弥吉著、時事通信社)、『長崎への道』(結城了悟著、日本26聖人記念館)、『日本二十六聖殉教者』(T・オイテンブルク,S・シュナイダー共著、中央出版社)等の書物を参考にさせていただきました。誌面を借りて心より感謝します。 
 第7回 キリシタンの潜伏 イザヤ木原真(主の十字架クリスチャンセンター長崎教会牧師)
   二十六聖人以後のキリシタン

 1597年2月5日、長崎の西坂の丘で26聖人が殉教した後、多くの人々がキリストの名のゆえに捕らえられ殉教していきました。
 26聖人が殉教した翌年、彼らに死を宣告した秀吉は死にます。そして時代は徳川へと移り、日本は鎖国することになります。やがてキリスト教は全面的に禁止され、非常に厳しい迫害と弾圧が始まるのです。幕府と奉行はあらゆる方法でキリシタンを見つけだし、彼らを転ばせるために拷問し、どうしても転ばない者はとても残酷な方法で殺していきました。こうして、日本に命がけで来ていた宣教師たちもついに捕らえられ追放され、殺されていきました。キリシタンはもはやいないと思われるまで、徹底した弾圧がなされたのです。
 ところがそのとき、長崎の浦上には地下に潜伏したキリシタンたちがいたのです。彼らは帳方、水方、聞役という地下組織を作って、なんと約250年間、信仰を保持したのです。彼らはこの国で再びキリストを信じる信仰を公にすることができるようになる日まで、7代にわたって信仰を継承していきました。しかも彼らが信仰の自由を得るためには、再び激しい迫害と殉教の死を通らねばなりませんでした。
 これからしばらくの間、この浦上のキリシタンたちに目をとめていきたいと思います。
 1567年頃から長崎にキリシタンが伝えられ、浦上にも布教が行われました。1584年、有馬晴信がイエズス会の知行地として浦上を寄進したことによって、浦上は名実ともにキリシタンの村になったのです。しかし1587年に秀吉が伴天連(宣教師)追放令を出し、翌88年に浦上は長崎とともに直轄領となります。1614年1月31日、徳川家康は禁教令を発布し、すべての宣教師が追放されることになりました。そして250年にわたる禁教と弾圧、迫害と殉教、キリシタンの潜伏の時代へと入ることになったのです。

「崩れ」

 キリシタンの潜伏時代には、たびたびキリシタンの検挙事件が起こりました。嘱託銀(高札に記された訴人への賞金)ほしさの密告、いわゆるユダによるものが多かったようです。大量検挙によって潜伏組織が崩壊に瀕したことを「崩れ」と呼びます。「崩れ」は大村藩の群崩れや豊後崩れ、そして美濃、尾張地方での濃尾崩れなど各地で起こりました。浦上においても潜伏していた250年の間には何度かの崩れが起こりました。紙面の都合上詳しくは書けませんが簡単に書いておきます。
 1790年に19人が捕らえられた「浦上一番崩れ」があります。いったん証拠不十分と言うことで出牢放免となり、92年9人の者が再び入牢させられるという曲折をへて、95年にこの事件は落着し、全員が放免されます。
 「浦上二番崩れ」は1839年に転びキリシタンの密告によって勃発し、浦上キリシタンの秘密組織の最高指導者である帳方の利五郎をはじめ、村民の中心的指導者ばかりが捕らえられました。このときも結局は、全員釈放となりました。
 1856年「浦上三番崩れ」が起こります。これも密告によるものでした。最高指導者の帳方吉蔵以下多くの指導的人物が投獄され、非道な拷問を受けます。このときの拷問で転んで仏教徒になった者もいるようです。1860年に事件は決着しましたが、吉蔵は牢死、子の利八は所払いになり、初代孫右衛門から吉蔵まで七代続いた帳方は、その後置かれなくなり、1865年の信徒発見を迎えます。水方も4人のうち1人だけが生き残りました。
 信徒発見が起こる直前に大きな崩れが許されたのは、とても興味深いことです。250年待ち続けたことの成就を見る前に彼らは帳方を失い、水方も1人しか残らないという試練の中に置かれたのでした。しかもその中で転んで仏教徒になる者も出ました。しかし最後まで信じて信仰を守り通した者たちは、この数年後、主の真実と約束の成就を見ることになったのです。

浦上の地下組織

 信徒発見までの7代250年間ものあいだ、何が浦上のキリシタンたちに潜伏の中で信仰を保持することを可能にさせたのでしょうか。それに2つの大きな理由があると思われます。
 まず第1に、彼らの作った地下組織でした。それは次の3役で構成されていました。
@帳方・・・・・・浦上に1人いて、日繰り(バスチャン暦)を所持し、1年の祝日や教会行事の日を繰り出し、また祈りや教義などを伝承する。
A水方・・・・・・各郷に1人いて、帳方から伝えられた祝日や祈り、教義を聞役に伝える。洗礼を授けるのは水方の役目になっていました。
B聞役・・・・・・各字に1人いて、1戸1戸の信者を掌握していて、水方から伝えられたことを各人に流す。
 このような帳方・水方・聞役という指導系統ができていたのです。250年に及ぶ長い間1人の神父もいないのに信者たちが信仰を伝え継承できたのは、ひとつにはこの組織のゆえでした。(このような地下組織は浦上ばかりではなく、外海地方、五島、平戸、生月地方のキリシタンたちも持っていました。)

バスチャンの日繰り

 この地下組織のほかに、もうひとつ彼らが250年間信仰の灯をともし続けるのに大きな原動力となったものがあります。それは神父たちが殉教してしまった後に、信徒を指導していた日本人伝道士バスチャンの存在でした。彼の洗礼名はセバスチャンと言いましたが、略してバスチャンと呼ばれていました。彼の日本名はいまもわかっていません。
 彼は「バスチャンさまの日繰り」という、1634年の太陰暦によるキリシタン暦(受難週や復活祭、聖霊降臨日や降誕節など)を残しました。この影響は非常に大きなものがあります。長い迫害の中で、浦上はもとより外海・五島・長崎地方のキリシタンたちが信仰を伝承しえた力のひとつは、この「日繰り」であったと言っても決して過言ではないのです。ではどのようにしてこの「日繰り」はできたのでしょう。
 バスチャンはジワンという神父の弟子になってともに伝道していましたが、あるときジワンは国に帰ると言って姿を消してしまいました。バスチャンはすでに日繰りの繰り方をジワンから教えられていましたが、まだ十分には納得していませんでした。それで彼は21日間断食して、「もう一度ジワンが帰ってきて教えてください」と主に祈ったところ、どこからかジワンが帰ってきて教えてくれたのです。そしてバスチャンと別れの水杯をして、海上を歩いて遠くに去っていったと言われています。
 このバスチャンについての伝承が、どこまで信憑性を持つものかはわかりませんが、確かに「バスチャンの日繰り」がいまも残っており、それがキリシタンたちにとってどれほど大きな力であったかということは、決して否定することのできない事実なのです。そしてそれはバスチャンの切なる断食を伴った祈りを通して主が与えられたものだったのです。1人の伝道士の切なる祈りがその後250年間続いた迫害の中で人々の信仰を支える力となりました。1人の真実な祈りは主の心を動かし、その祈りの答えは多くの人々の信仰をも引き上げ建て上げていきます。確かに主は祈る人々を通して働いてくださり、祈りを通じて人々を祝福してくださるのです。
 また、バスチャンが残したのは日繰りだけではありませんでした。彼は処刑される前(彼も殉教者でした)、4つのことを預言し予告しました。そして人々はこれを大切に伝承していったのです。

バスチャンの四つの予告預言

 バスチャンが残した4つの予告とは次のようなものでした。
一、お前たちを7代まではわが子とみなすがそれからあとはアニマ(霊魂)の助かりが困難になる。
二、コンヘソーロ(告白を聞く神父)が大きな黒船にのってやってくる。毎週でもコンヒサン(告白)ができる。
三、どこでも大声でキリシタンの歌を歌って歩ける時代が来る。
四、道でゼンチョ(ポルトガル語で教外者)に出会うと、先方が道をゆずるようになる。
 キリシタンたちは、この4つの預言の言葉を大切に抱きながら、告白を聞いてくれる神父がやってきて、大声でオラショ(お祈り)することのできる日を7代250年の間信じて待ち続けたのです。
 バスチャンから7代たったときに長崎の外海というところに形右衛門というひとりの老人がいました。彼は信仰篤い人で「コンヘソーロ(神父)が来るのをずっと待っていました。彼は涙を流してこう言ったのです。
「黒船の渡来も遠いことではないぞ。コンヘソーロが来て、コンピサン(告白)をきき、罪科の赦しをいただける日は近づいた。オラショも教えも大声でできるようになるぞ。牛肉も食べられる世になるが、それは金持ちや上っ方ばかりでわれわれ貧乏人の口にはのるまい。その日が近づいたというのに、このわしはなんと不幸じゃ。コンヘソーロに会うてコンピサンを申すこともできないで死んでしまうが、お前たち若い者は、その時代を見ることができるのじゃ。」
 ところがある日、大きな黒船がやってきたと言って人々が騒いでいます。彼は小高い丘に登って、そのところを打ち眺めました。
「こえじゃ。バスチャンさまの預言の黒船じゃ。じゃが、わしはコンヘソーロに会うてコンピサンを申すまで生きてはおらぬ」
 そう言って彼は涙をこぼしたのです。
 また長崎港の近くに善長谷というカトリック信者の村があります。もと禅定谷といっていましたが、左八という水方が引率して家族と2人の独身者が移住してきました。
左八は臨終のとき、各戸の家頭を枕元に集め、訓して言いました。「やがて黒船に乗ってくる人とひとつ心になれ」と。
 このように「7代たったらコンヘソーロがやってくる」という預言の言葉は、潜伏しているキリシタンたちにとって、とても大きな希望となっていたのです。
 そしてその予告のとりに7代目に当たる幕末に黒船がやって来て、大浦天主堂が建ち、神父が来てキリシタンの復活がおこるのです。

さらに迫害の後

 しかし彼らが信じて待ち続けた大声でキリシタンの歌を歌って歩ける喜びを得るためには、1867年に始まった「浦上四番崩れ」とそれに続いて起こった大村領木場の三番崩れ、悲惨極まる五島崩れ、外海や伊王島、蔭の尾島、大山、善長次などの離島僻地にまで及んだ残酷な迫害を、忍びながら通過しなければならなかったのです。そしてその中には、殉教する者たちも出ました。
 この国が鎖国を解き、250年以上も続けたキリシタン弾圧と迫害をやめてキリストを信じる信仰の自由を得るためには、再び殉教の血が流されなければならなかったのでした。
 来月からこの浦上四番崩れに関して詳しく見ていきたいと思います。私たちはいまこんなにも自由にキリストを信じることができますが、それは彼らの迫害の中での主への従順と、その結果もたらされた尊い殉教の上にあることを私たちはそこで知ることでしょう。
 第8回 キリシタンの復活 イザヤ木原真(主の十字架クリスチャンセンター長崎教会牧師)
 1853年にペリーが浦賀に来て、鎖国を続けていた日本は外からの力によって目を覚まされることになりました。そして1858年(安政5年)、日本はアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと修好通商条約を結び、長崎など5港が開かれ、外国人居留地ができるようになりました。ここに、ついに200余年にわたって続いた日本の鎖国は破られたのです。
 この条約の中には、「居留民(外国人)は自国の宗教を自由に信仰いたし、その居留の場所へ、寺社(自分の宗教の礼拝堂)を建てるも妨げなし」と書かれていました。これによっていままで禁止されていたキリスト教信仰が外国人居留地に限って公認されたのです。この結果、長崎にも天主堂が建てられることになりました。
 
大浦天主堂─フランス寺

 天主堂は1863年に大浦の南山手にフランス人のフューレ神父によって着工されました。翌年に帰国したフューレ神父に代わってプチジャン神父が、日本人を使って日本の材料で工事を進め、ついに1864年12月29日に落成し、翌1865年2月19日に献堂したのです。
 この天主堂は北に向かって、26聖人の殉教した西坂に真向かいに建てられているので、日本二十六聖人教会あるいは二十六聖人殉教堂と名づけられました。しかし町の人々は当時フランス寺と呼んでいました。いまは地名にちなんで大浦天主堂と一般に言われています。
 プチジャン神父は長崎にはきっと昔からのキリシタンが残っているに違いないと思い、天主堂ができればすぐにでも名乗り出てくるだろうと待ちかまえていました。ところが献堂式の日には日本人はだれも姿を見せないのです。フランス領事から長崎奉行に案内状が出されていましたが下役が代理として来ただけでした。彼らは大いにがっかりしました。
 けれども神父はあきらめないで、長崎はもちろん、その郊外あたりにもたびたび出かけてキリシタンらしい人はいないか、家はないかと訪ねて歩いていたのです。子供にお菓子を与えて、食べるときに十字をきりはしないかと気をつけてみてみたり、わざと馬から落ちてキリシタンなら思わず助けてくれはしないかと試してみたり、いろいろとやってみましたが、みんなあてが外れて信者らしい人とは出会えませんでした。多くの殉教者を出した長崎にはきっと信者の種が隠されているに違いないと神父たちは信じていました。けれどもそれらしき者が一人として見つからないのでよほど厳しい弾圧と迫害を受けたのだろうと、嘆いていました。
 ところがそのとき、長崎の周りの村や島には何万というキリシタンたちがそしらぬ顔をしながら信仰を告白する時を待っていたのです。

浦上信徒発見

 1865年3月17日、金曜日の昼下がり、フランス寺の前に十数名の男女の農民がやってきました。フランス寺の扉は閉まっていました。フランス式のかけ金の開け方がわからないのでガチャガチャさせていると、プチジャン神父が急いでやってきて開けてくれました。神父が聖所のほうに進んでいくと、参観人の一行は物珍しげに、きょろきょろしながら後ろからついて堂内に入ってきました。プチジャン神父が祭壇の前でひざまずいて祈っていると、天主堂の中にも窓の外にも、役人らしい人影がいないのを確かめて、彼らの中の3人の婦人が近づいてきて、その中のひとりのイサベリナゆりが胸に手を当てて神父の耳元にささやきました。
『ワレラノムネ アナタノムネトオナジ(ここにおります私たちはみな、あなたさまと同じ心でございます)』
「本当ですか。どこのお方です。あなたがたは」
「私たちはみな、浦上のものでございます。浦上ではほとんどみな私たちと同じ心を持っております」
 これらの言葉を耳にしたとときのプチジャン神父の驚きと喜びは、いまの私たちには到底察しえないでしょう。このとき250年間地下に潜伏していた日本のキリシタンたちが復活したのです。
 驚きながら立ち上がろうとする神父にその婦人はたたみかけるように聞きました。
『サンタ・マリアのご像はどこ』
 神父が聖母像の前に案内すると、みんなが集まってきて「本当にサンタ・マリアさまだよ。御子ゼススさまを抱いていらっしゃる」と言うのでした。
 プロテスタントの牧師である私は、彼らがマリア像を探していたことに、つまずきを覚えていました。ところが先日ある神父の方がこう言われるのを聞きました。
「みな、『サンタ・マリアのご像はどこ』という言葉ばかり強調する。でも大切なことは、彼らはこの像の前に来て御子ゼススさまを探していたことです。彼らはイエスさまを探していたのです。そのことを忘れてはならない」
 確かに彼らはイエス・キリストを信じて神父の来るのを250年間待ち続けていたのです。
 彼らの中のひとりがさらに申しました。
「御主(ゼスス)さまは・・・・・・33歳のとき、わたしたちの魂の救いのために十字架にかかっておはてになりました。ただいま私たちは悲しみ節にいます。あなたはさまも悲しみ節を守りますか」
「そうです。私たちも守ります。今日は悲しみ節の17日目です」 
 神父は「悲しみ節」という言葉をもって「四旬節(復活祭前の40日)を言いたいのだと悟ったのです。悲しみ節の期間、迫害下の潜伏の中でキリシタンたちは断食と祈りを守り続けてきたのです。
 彼らがさらに神父に質問しようとすると、他の日本人が天主堂に入って来ました。そのとたん神父の周りにいた彼らは、たちまちぱっと八方に散り散りになりましたが、すぐまた帰ってきて「いまの人たちも村の者で私たちと同じ心でございます。ご心配いりません」と申しました。
 こうして浦上のキリシタンが発見されたのです。それにひき続いて長崎県だけでも数万人ものキリシタンが潜伏していることが明らかになりました。1614年1月の大禁教令から251年にわたる、厳しい迫害と殉教の期間を潜伏し続けたキリシタンはついに復活したのです。これは他国に類を見ない出来事として、世界宗教史上でも注目されています。

役人の目を盗んで

 イザベリゆりたちがフランス寺で会った異人が7世代250年待ちわびてきた神父であることは、その日のうちに浦上全村民に知れわたりました。その翌日から、浦上の信者たちは早朝から続々と天主堂へ来るようになりました。
 しかし日本はまだ厳重な禁教下にあったので、役員の警戒もまた急に厳しくなりました。それでも信者たちは役人の目を盗んでは、夜となく昼となく、天主堂に入り込んでオラショを唱え、神父たちと話をするのでした。それが役人の目にあまりひどくうつると、新しい迫害が起こるかもしれません。そこでプチジャン神父は信者たちに、天主堂に来るのを遠慮するように言い、自分の方から出ていって信者の代表と会うことにしました。また信者の隠れている村々や島々へも出かけることにしました。
 ちぢれ髪や髭をそり落とし、シュロの毛を黒く染めて作ったかつらをかぶり、日本の農民の着物を着て、わらじをはいて角帯をしめ、手ぬぐいを頬被りして日本人に化け、夜中に山の中の小道を案内されたり、小舟に乗せられたりして、村や島を回りました。一方では大浦天主堂の屋根裏部屋に、村々の代表や青年たちを集めていろいろと教え、伝道士として村へ帰しました。こうして彼らの信仰は日毎に強められ、燃やされていったのです。

自葬問題
 
 当時は、死人があると必ず壇那寺の坊さんを招いて読経を頼み、坊さんの立ち合いのもとで納棺することになっていました。しかし神父から指導を受けるようになるとこのような表面仏教という態度を清算しなければいけなくなったのです。
 1867年4月5日、本原郷の茂吉が死んだとき、これまでどおり聖徳寺の坊さんを呼んできましたが、使いの者が途中でわざとつまらぬことを言って坊さんを怒らせたので坊さんは帰ってしまいました。それでこれ幸いと茂吉の家では坊さんなしで自葬してしまったのです。よ翌6日、平の宿の久蔵が死んだときは、聖徳寺にも知らせずに自葬してしまいました。
 それを知った聖徳寺が庄屋に訴え出て問題になっている最中の4月14日、平の三八の母たかが死にました。今度は庄屋が気を利かせて坊さんを連れてきましたが、家の者が承知しないでお経をあげるのを断り、自葬しました。庄屋は「いまの坊さんが嫌いなら、お坊さんを代えてやる」と言いましたが「どなたであろうと坊さんはいらないのです。お寺とは縁を切りたいのです」と答えました。
 これは大変なことでした。なぜなら死人が出たとき、坊さんを呼んでお経をあげるというのは、祖法(徳川家康、秀忠、家光三代の間に決まった背くことのできない大事な掟)だったのに、それを「嫌です」と言ったのですから。庄屋があわてたのも無理はありません。「それでは聖徳寺との縁を切りたい者の名簿を出せ」と言ったところ、本原郷400戸、家野郷100戸あまり、中野郷100戸というように、元来の仏教徒と裕福ではあるが信仰心の薄かったキリシタン30戸だけをのぞいて、村人のほとんど全部が名を連ねました。
 これでついに浦上村の人々がキリシタンであることが明るみに出たのです。長崎奉行所では、たくさんの間者を浦上に潜入させて信者の名簿を作り、主だった指導者たちのことや、4カ所の秘密聖堂の坪数、間取りまで詳しく調べていました。

浦上四番崩れ

 1867年7月15日の早朝3時ごろ、大雨をついて安藤弥之助の指揮する捕手たちが、数隊に分かれて浦上の秘密聖堂や主だった信者の家を襲い、踏み込みました。秘密聖堂は散々荒らされ、68人が捕らえられて桜町牢に入れられました。これが「浦上四番崩れ」と言われている大迫害の発端です。こうして浦上ではまた迫害が始まったのです。
 キリシタンであるという信仰の理由だけで、このような捕縛投獄が行われたことは、居留外国人たちに大きな衝動を与えました。そしてこの事件はその日のうちに外交問題となりました。その日(7月15日)の午前11時、プロシア領事が、翌16日にはフランス領事レックスが、その翌17日は、ポルトガル領事ロレイロが奉行所を訪ね、抗議をしました。
 その数日後に来崎したアメリカ公使ワルケンブルグも奉行に抗議し、牢内にいる信徒たちを見舞いました。大国アメリカの全権公使が農民信徒たちを懇切に慰問したことは長崎奉行をずいぶん驚かせたようです。領事たちは「日本が宗教を許さないということは、野蛮国であるという証拠であり、このたびの事件が本国へ報告させられたならば、日本の立場は非常に悪くなるでしょう。対等の条約が結べなくなるかもしれません。ですから早急に信者を放免し、さらにすすんでキリシタン命令の高礼を取り除けるほうが、国家のためによいでしょう」と注意をしました。
 しかし奉行は「これは純粋な内政問題なので外国の指図を受けるものではない。ことに二百年来も守られてきたキリシタン命令の法令を止めることは、幕府だけがすることで地方の問題ではないから、どうか江戸幕府へ談判して欲しい」と答えました。
 その結果、この問題は江戸幕府と上記各国等による外交団との間に移され、外交団は毎日のようにこの問題をもって幕府に迫りました。しかし徳川250年の間に培われたキリシタン邪教観は根深く、なかなか解決はしませんでした。そしてキリシタン事件を解決できないまま幕府は瓦解してしまうのです。
第9回 浦上四番崩れ イザヤ木原真(主の十字架クリスチャンセンター長崎教会牧師)
今月から「浦上四番崩れ」について書いていきたいと思いますが、その前にいままでに書いてきたことを簡単にまとめておきます。
 激しい迫害の中で潜伏したキリシタンたちは、バスチャンの残した予告を信じ7代250年の間、告白を聞いてくれる神父が来るのを待ち続けていました。そして予告どおり、7代250年たったときに、神父がついにやって来ました。
『ワタシノムネアナタトオナジ』この言葉をもって復活したキリシタンたちは、うれしくてたまりません。それまで隠れて待ち続けてきたキリシタンたちは、毎日のように天主堂に通い、熱心に祈り、御言葉を学びました。けれどもまだ、日本はキリスト教を禁止していたのです。その結果、浦上のキリシタンたちはついに捕らえられ、牢に入れられてしまいました。まず指導者の68人が最初に捕まりました。そしてこの問題を解決できぬまま、江戸幕府は倒れてしまうのです。
 かわった明治新政府は神道を中心に天皇政治を目指したため、キリシタンに対しては迫害の手をゆるめるどころか、ますます激しくなりました。そのため、キリシタンへの迫害と弾圧は外交上の問題となりました。明治6年、すなわち1873年になってやっとこの問題は解決し、キリストを信じることが認められたのです。しかしそのためには「浦上四番崩れ」と言われている明治政府によるキリシタン弾圧の中での厳しい迫害と殉教を通過しなければならなかったのです。

捕縛

 1867年7月15日の早朝、3時頃、大雨をついて捕手たちは浦上の地に踏み込み、68人が捕らえられました。これが「浦上四番崩れ」の始まりです。彼らは桜町牢に入れられました。この桜町牢はもともと教会のあったところですが、1614年の迫害のときに壊され、その後に牢獄が造られて、迫害時代に多くの神父や信者たちが苦しみをしのぎ殉教へ旅立っていったところです。
 しかし長崎奉行は浦上の農民たちが囚人たちを奪い返しに来るかもしれないと思い、2日後には小島に新牢を造りそこに移しました。そこから仙右衛門、与五郎、寅五郎、又市などは取り調べのためにたびたび西役所に引き出されました。
 一方、キリシタンであるという信仰の問題だけで捕縛投獄されたことに在留外国人は衝撃を覚え、各国の領事は奉行に抗議しました。さらに問題は幕府と各国外交団に移され、毎日のように議論されました。しかしキリシタン邪教観は強く、なかなか解決しませんでした。
 そうしている間にも、「入牢者には拷問を加えない」という外交団との約束は破られ、長崎では捕らえられた68人に説得やひどい拷問が加えられていました。
 また彼らが捕らえられたあとにも、浦上では、死人が出たとき坊さんを呼ばない人たちが次々に桜町牢に入れられていました。
 10月5日、68人は再び小島牢から桜町牢に移されましたが、そのときには彼らは83名となり、2坪の4畳半の牢に38人が詰め込まれる有様でした。それでも彼らは責められても苦しめられても信仰をこのときまでは守っていたのです。
 けれども桜町牢での拷問は凄惨をきわめ、その結果、ついに高木仙右衛門ただひとりを残して82人が転んでしまうのです。

過酷な拷問

 駿河問いという責め苦(ドドイとも呼ばれる)を受けるため、6人が選ばれました。
 これは両足を背中にそらせて、両足首と両手首それに首、胸にも縄を掛けてそれを背中の1カ所くくり寄せ、その縄を梁に巻き上げ、体を弓のようにそらせて、つるすのです。コマのように勢いをつけて、振り回し、次によりを戻して逆に回転させます。そして下に立った役人が棒とむちでさんざんに打ち叩きます。するとほとんど気絶してしまいます。それから地面に引き下ろして水をかけ、正気に戻して繰り返すのです。水をかけると縄は、短く縮み、肉にくい入り、皮膚は紫色に変わります。そしてまた気絶してしまいます。こうして6人は門口に引き出され、捨て物のように転がされました。
 続いて次の5人も同じ目にあわせようとしました。この拷問のありさまを見せられていた人たち何人かは、「これから毎日こんな目にあわされるなら、とても信仰を守り通すことはできない」と、転び証文の自分の名前の下に爪印を押してしたのです。それを見ていまひどい目にあった6人もすっかり気を落としてしまい、爪印を押してしまいました。役人は「あれを見たか、あのような体になってから改心するよりも、いま体の痛まぬうちに改心したらどうだ」と、これから拷問を受けようとしている5人の者や、まだ転び証文に爪印を押していない人たちに言いました。
 それで、これから拷問を受けようとしていた5人もすっかり気を落としてしまい、残っていた人たちもみんな爪印を押してしまったのです。ただひとり、高木仙右衛門だけを残して。

祈りによって

 ただひとり高木仙右衛門は転びませんでした。この人は農民でした。字は読めず、特別な学問を受けたわけでもなく、見た目には弱そうな人で、仲間さえ、どこからそんな勇気が出てくるのか信じられないくらいでした。彼はただ単純に教えられたことを信じて守っていただけでした。毎金曜日にはキリストのご受難を思って断食をし、祈りをしている人でした。
 仙右衛門は転んで牢を出された人より3日遅れて、転ばず信仰を守り通し、村(乙名)預けということで浦上の村に帰されました。そのとき村の人が仙右衛門に、どうしてあんなひどい拷問をしのぐことができたのですかと聞きました。
「どんな強い人間でも、あんな目にあわせられたら、人間の力だけではとてもしのぐことはできません。私が転んだら天主さま、また日本のたくさんの殉教者に対して申し訳ないと思い、断食の祈りを捧げ、聖霊さまのお助けを祈っておりました。聖霊さまのお力でしのげたのでございましょう」と仙右衛門は答えました。
 彼がひとりだけ転ばずに信仰を守りとおせたのは、特別に主にすがり、自分の弱さを覚えて祈っていたからでした。いやむしろ彼は弱かったからこそ、断食までして、主イエスさまと聖霊さまに真剣に助けを求めたのです。そしてその祈りは主に聞き届けられ、彼はどんなに目の前でひどい責め苦を見せられ、他の者たちが目の前で次々に転んでいっても転ばなかったのです。主は他のだれでもなく、字も読めず無学であっても、祈り、主にすがる者に助けを与え、日本の信仰の自由を勝ち取らせてくださいました。

改心もどし

 転んで先に帰った人たちは、家族から「信仰を捨てた者はきっとテングがついたにちがいない。家に入れると一緒にテングもついてきて、みんな転んでしまう。だから家に入れるな。もしあなたが家にいるなら私が出る」と言われ、家にも入れてもらえませんでした。かといって外にもおられず、天主を捨てたという思いで、身一つ置くところなく、昼も夜も山の中で3日3晩泣いていました。そこへ仙右衛門が帰って来、まるで凱旋将軍のように村人が迎えていました。
 平生は強そうに見え、教理もよく知っている伝道士たちがみんな転んでしまったのに、無学で弱々しく見えた仙右衛門がひとり信仰を守りとおしたので、転んだ連中は、恥ずかしくてたまらなくなりました。それで仙右衛門にできたのなら、自分にもできないはずはないと、女性5人を含む38名の者が庄屋の門をたたいて「改心戻し」を申し出たのです。
 改心戻しとは、一度転んで改宗しキリストを捨てたことを取り消して、もとのキリストへの信仰に戻ることです。
 ところが庄屋は、怒りにわなわなと震えて、大声で怒鳴りつけました。
「この大ばかども、あれだけの責め苦で転んだ者が、改心戻しをすれば、その十倍もひどい責め苦にかけられ、しのぐことなどできるわけがない。その願いは取り上げるわけにはゆかぬ」」
「ぜひに願いをいたしまする。もし庄屋さまが受けつけてくださらないならば、これから長崎の代官に直訴をいたしまする」
 庄屋はやむなく、その夜のうちに彼らの名簿を添えて長崎代官に届けました。数日後、彼らは奉行所に呼び出されました。殉教覚悟で彼らは出頭しました。
 ところが白州へ出てみると、案に相違して、「いずれきびしく吟味いたすので、そのとき呼び出すまで自分の家におれ」と言い渡されて奉行所から追い出されました。というのは幕府が倒れて、天皇政治が始まろうとしており、奉行所はそれどころではなかったのです。翌11月9日に15代将軍慶喜は大政を奉還し、浦上事件を解決できないまま幕府は倒れました。

キリスト教邪教観

 年は改まり1868年、明治新政府は沢宣嘉と九州鎮撫総督兼外国事務総督に任命します。彼は井上聞多(馨)と連れて3月7日に長崎に着任します。
 新政府は4月7日に五榜の掲示を掲げ神道国教主義の政治方針を明らかにしました。つまり神道により民心を一つにまとめようとしたのです。それは当然キリシタン弾圧を決定づけました。五榜の掲示の第三札には次のように書かれていました。
一、切支丹邪宗門之儀は堅く御制禁たり。
  若不審なる者之有れば、その筋之役所に申出可、御褒美下さる可事。
                         慶応四年三月   大政官
 これを見た欧米の外交団から「われわれ文明人の信じているキリスト教を邪宗というのはわれわれに対する侮辱である」と政府へ抗議してこられ、政府は困って、
一、切支丹宗門之儀は、是迄御制禁の通り固く相守るべく候事。
一、邪宗門之儀は固く禁止之事。
と書き改めました。
 一方、長崎では沢宣嘉は浦上キリシタンの指導者26人を総督府に呼び出してキリシタンを捨てよと、厳しく命じつめ寄りました。しかし改心戻しをしたとき彼らは殉教を覚悟していましたので「死刑にされてもかまいません」と言って信仰を改めようとはしません。そこで沢宣嘉は4月29日に180人の戸主を呼び出し、総督府の庭の小石の上に座らせて12人の役人を従えて出てきました。
「まだキリシタンを信仰しているというが相違ないか」「相違ございません」と仙右衛門が答えます。「早速止めろ」「キリシタンをやめたいならとっくの昔にやめています。これからも呼び出されれば出てまいりますが、何度参りましても同じでございます」「みなの者、そのとおりか」「さようで、さようで」と異口同音に答えました。
 信者たちの決心の固さを見て、沢宣嘉は「中心人物は斬首、その他の者は流罪にする」という浦上信者処分案を井上馨にもたせて京都にやり、政府の決裁を求めました。

浦上一村総流配

 5月17日、大阪の本願寺で処分に関する御前会議が開かれ、三条実美、木戸孝允、伊達宗城、井上馨に、長崎から呼び出された大隈重信が加わりました。御前会議では沢の処分案や重臣の意見も参考にされましたが、木戸の意見が用いられ、中心人物を長崎で死刑にし、残りの三千余人を名古屋以西の十万石以上の諸藩に流配、大名に生殺与奪の権を与え、7年間は一口半の扶助米を支給し、キリシタンの中心浦上を一掃することに定まりました。しかし、それはあまりにもひどすぎると参与小松帯刀が三条実美に意見を申し出たので、死刑にしないで全員流配することに決まりました。
 こうして一村総流配という大変な処分が行われることになったのです。 
浦上四番崩れA イザヤ木原真(主の十字架クリスチャンセンター長崎教会牧師)
明治新政府は神道国教主義をとり、キリストへの信仰を捨てない浦上のキリシタンたちを「一村総流罪」にすることに決めました。この結果、浦上の信者3394名が金沢や名古屋、それに萩、津和野、鹿児島などの西日本の諸藩に流されることになりました。

一村総流罪

 1868年7月11日、とりあえず仙右衛門や甚三郎などの中心人物から萩に66名、津和野に28名、福山に20名の合計114名が長崎港から送り出されました。浦上に残された人たちには(家族のものでさえ)、彼らがどこに流されたのかは半年後までわからなかったのです。
 1870年1月1日、突然に残された戸主700名に、明朝六ツ時までに立山役所に集まれと出頭命令が出ました。あまりにも突然だったので出かけている者もあり、5日に改めて欲しいと信者が申し出、役所もそれを許しました。その間に長崎にいる各国領事をはじめ、たまたま長崎に来ていたイギリス公使パークスたちが県知事にかけあって、何とかやめさせようとしましたが、知事は「東京政府から出た命令なので何ともしがたい」とつっぱねたのです。
 1月5日の朝、振遠隊という長崎守備の兵士たちが浦上に出張して、男子たる戸主700名を立山役所に集め、大雪の中、終日役所の庭に立たせた末、夕方になって長崎港(大波止)に集まっていた12隻の汽船に彼らを乗せました。
 翌6日には先に萩、津和野、福山に流された114名の家族を召喚して、彼らも夕方乗せました。また700名の残りの家族に対しても検挙が始まり、男も女も、老人も子供も、みんな勇んで家を出ました。ある者は汽船で、あるいは和船で、ある人は長崎港の大波止から、他の人は時津からというふうに、船で20カ所に流されました。

「旅」

 信者たちはこの流罪を「旅」と言いました。一村総流罪というこの旅は、近代日本の歴史に特筆されるべき残酷物語ではありました。しかし、旅に出る人々の心は明るかったのです。信仰を守り神さまへの忠実を貫いて殉教への旅に出ることは、彼らに残されたただひとつの道だったからです。
 このたびでは家族ばらばらにされるものが多く、親に別れ、夫に別れて見知らぬ所に連れて行かれてひどい難儀をしたようです。
 彼らは信仰を守り通すため、全国21藩に流配され、6年有余の長い間、飢え乾きながら数々の拷問の苦しみに耐え、1873年(明治6年)、ついにキリシタン禁制に高札が撤去去れ、荒れ果てた浦上に帰ってくるのです。ここでは、旅の中でも特に迫害が厳しかったといわれている津和野のことを少しだけ書いておきます。

津和野での拷問

 仙右衛門や甚三郎は、津和野に流されました。初めは毎日お寺のお坊さんが来て説教をし転宗を迫りました。こうして半年が過ぎました。今度は神主の佐伯と言う人が説得にかかりましたが信者は全く感心しません。そこでしかたなく、拷問を加えることに方針を変えました。畳をはぎ取り、食事には一日米三合、塩ひとつまみと水、むしろとちり紙一枚をあてがいました。着物はとらわれた日に着ていたものがあるだけでした。板敷きの上に、みんなで抱き合って寝ましたが、冬の津和野はあまりに寒くて眠れません。とうとう16人は耐えきれずに転宗を申し出ました。
 転送したものは別の場所に移され、腹一杯に食べ仕事に出ることも許されました。そこへ、まだ転ばない者たちを3、4人ずつ連れてきて「お前もただお上の言いつけに従って西洋の宗教を捨てればいまの地獄からあのような極楽に移れるのだ」と誘惑するのです。
 それでも転ばぬ者たちは三尺牢に入れられました。三尺牢は90センチ立方の箱で、前は6センチ角の柱を3センチおきに打った格好になっており、天井に食事などを入れる穴が一つあるばかり、他はすべて厚さ4センチの松板で固くできていました。体を曲げてやっと入っていられる狭さでした。

氷責め
 
 冬のある日、仙右衛門と甚三郎は朝から呼び出されました。彼らはどんなに説教されても信仰を捨てません。それで氷責めにかけられました。そのとき津和野では雪がひと月以上降り続き60センチ以上も積もっていました。池にも厚い氷が張っていました。その池の縁に4斗桶をふたつ並べ、柄長の柄杓でふたりの裁判の役人や警護の役人5、6人が彼らを引き出し、「外国の宗教を信ずる者は、日本でできたものは身につけてはならぬ」と言って、ちょんまげの頭に巻いてある紙のこよりも切りのけ、着物もふんどしも取りのけ、真っ裸にして氷の張った池の上にふたりを突き落としました。
 すると氷はみしみしと破れ、ふたりは氷の下を泳ぎ廻りましたが、深くて背が届かず、やっとの思いで池の真ん中に浅いところを見つけて足先で立ち、破れた氷の上に頭を出して苦しい息をしました。そのとき役人が「仙右衛門、甚三郎、天主が見ゆるか。さあ、どうじゃ」と嘲りました。そして水を何度も汲んで顔に投げつけ、息ができないようにしました。それよりだんだん体は冷え凍り、震いがき、歯はがちがち鳴りだしました。そのとき仙右衛門は甚三郎に言いました。
「甚三郎、覚悟はいいか。私は目が見えぬ。世界がくるくる廻る。どうぞ私に気をつけてくだされ」
 もやは息が切れようとするときに、役人が「早くあげろ」と言いつけました。それで警護の役人が「早く上がれ」と二人に言いましたが、「いま、宝の山に登りておるからは、この池よりあがられん」と甚三郎が答えたので、役人は5メートルばかりの竹の先に鉤をつけ、鉤の先に髪の毛を巻きつけ、力まかせに引き寄せて、氷の中よりふたりを引き上げました。
 柴束ふたつをたきつけとして枯れ木を立てて燃やし、ふたりの体を6人で抱えてその火にあぶり、ぬくめ入れ、気付けを飲ませて正気づかせました。「そのときの苦しさは何とも申されぬ」と甚三郎は手記に書いています。
 仙右衛門は体じゅうがうずき、次に悪寒と戦慄がきて、歯も抜けるかと思いましたが、2、3日たつと不思議なことにもともとかかっていた熱病まで治っていたのです。

空腹の中で

 さらに津和野には、先に流されてきた28名の家族の125名が2月の初めに着きました。
 もうすでに役人たちは説教だけでは転宗させることができないとわかっていたので、空腹の責め苦にかけました。1日に米一合三勺、みそを親指の大きさほど、塩ひとつかみ、水一杯、ちり紙一枚ずつを与えました。母親は自分の食べるものも子供に与えるので、みるみるやせていきます。そしてその弱り果てた体を裁判に引き出して、キリシタンをやめろと手を変え品を変え繰り返し責め立てます。
 絶えず腹をへらされ、仕事もさせられず、おおぜい狭い部屋に詰め込まれて、ふた月も同じ説教を聞かされると、しだいに望みも薄くなり、体も弱り、頭も変になって、ついテング(悪魔)の誘惑にのってキリストへの信仰を捨てる気になってしまうので、彼らにとってはこれほど恐ろしい効き目のある責め苦はないのです。
 こういう責め苦にあうと、男より女のほうが強く、かえって女から男が励まされていました。子供は母の教えた通りにします。こういう大きな迫害の中では、主婦がしっかりしていた家族だけが、最後まで信仰を守り通しました。

子供の単純な信仰

 ある日、3歳の子供がひとりで裁判に呼び出されました。役人はおいしそうなお菓子を見せびらかし、「キリシタンをやめたらみんなこのお菓子をあげるよ」と言って誘惑しました。子供は頭を横に強く振りました。「どうして?このお菓子とってもおいしいんだよ」と役人が言うと、子供は「お母がね、キリシタンば捨てないとハライソへ行ける、言うたもん。ハライソへ行けばね、そげんお菓子より、もっともっと甘か物あると・・・・・・」と答えました。
 ハライソ(天国)へ行ける、というのがただひとつの望みであり、もっとも大きな喜びだったのです。子供の信仰はこのような単純なものでした。しかし単純だからこそよけいに堅かったといえるでしょう。
 またあるときは、肥くみに来た近くの農民たちが、子供を喜ばせようとして、鳴くせみを捕まえて子供たちのいる牢に投げ込むと、子供たちは大喜びでそれを捕まえると、鳴かせて楽しむどころか、そのまま口に入れてばりばり食べてしまうのです。子供たちはそんなにも飢えていましたが、信仰に堅く立っている母にくっついて信仰を守り通しました。

信仰の自由

 各地に流された浦上のキリシタンたちは津和野と同じように激しい迫害の中で、主にすがり聖霊さまの助けを受けながら耐え忍んでいました。彼らの頭にはキリストを信じる信仰を命をかけても守ろうという思いしかなかったことでしょう。
 しかしそのことは彼らの知らないところで「信仰の自由」という世界的な問題となっていたのです。日本はこの迫害のゆえに諸外国から抗議を受けていました。流されたキリシタンたちに対する拷問は外国使節団の耳に入り、諸外国の新聞や雑誌で報道され、批判され、どこの国でもわき返るような世論となっていました。ちょうどそのようなとき、1871年12月24日に岩倉具視を全権大使とする一行がアメリカからヨーロッパ各国へ不平等条約改正の交渉のために行きました。
 欧米のどこの国でも必ずキリシタン迫害の事が持ち出され、「キリシタンを迫害するとは野蛮国である」と厳しく詰め寄られ、信仰の自由を条約に記すようにと非常に強く迫られました。
 特にベルギーのブリュッセルでは、市民たちが大使らの馬車に押し寄せて、浦上キリシタンの釈放を叫び、「流されている浦上キリシタンを牢から出せ」と言ってやめませんでした。さすがにこんな異国の地で浦上の名前を聞こうとは思ってもいなかったので、最初は日本の内政問題であるとつっぱねていた岩倉大使を中心とする使節団も、キリシタン邪教政策を修正せざるをえなくなったのです。
 そして1873年2月24日、キリシタン禁制の高札は撤去されたのです。ここに、1614年より始まったキリシタン禁制は262年ぶりに効力を失い、日本にキリストを信じる信仰の自由が与えられたのです。
 そして3月14日、各地に流されていた浦上のキリシタンたちは釈放され帰村することになりました。
浦上四番崩れB イザヤ木原真(主の十字架クリスチャンセンター長崎教会牧師)
キリストへの信仰を捨てない。ただそれだけの理由で「一村総流罪」となり、西日本諸藩に流された浦上キリシタンたち。
 しかし主は、彼らが示したキリストへの愛を忘れず、彼らの主イエス・キリストへの従順を通して、キリストに対して全く心が閉ざされていたこの国に、信仰の自由を与えてくださいました。
 1873年3月14日、ついに彼らは流配地から浦上に帰ってきたのです。彼らのキリストへの信仰が、日本のかたくなな政府に勝利したのです。
 しかしそのときには、613人はすでに流された地で殉教し、亡くなっていました。また6年あまりにわたってなされた残酷な拷問の中で、1011人は転んでしまったのです。この数字を見ても彼らへの迫害がどんなに厳しく残酷だったかがしのばれます。彼らの大部分は帰郷後、再び元の信仰へ戻りました。

大声でオラショできる

 流されていた3394名のうち1900人が、ついに浦上に帰ってきたのです。しかしそのうち736人には家がありませんでした。「旅」の間に壊されてしまっていたのです。残りの1164人には家はあったのですが、家とは名ばかりの、壁も瓦も落ちたあばら屋になっていました。もちろん畳や建具などは全くありませんでした。
 そこで、家なしの人のために竹の久保の官有林から切り出した木材で、ひとりあたり一坪の3、4軒続きのバラック長屋を建てて、とにかく落ち着かせることになりました。もちろん家財道具などはまったくと言っていいほどありません。
 このように軒の傾いたあばら屋と狭いバラック長屋ではありましたが、彼らはとても喜んでいました。それは主の恵みによってキリストへの信仰を守り通して故郷に帰ってくることができた上に、「大声でオラショ(祈り)することができる」時世になったことが、何よりもうれしかったからです。彼らの生活は極貧を極めました。けれども彼らのうちにある喜びはその貧しさによっては決して消すことのできないものでした。
 彼らは毎日毎日大声で祈ったのです。主イエスに感謝しながらオラショを捧げました。日曜日には大浦天主堂に行ってミサにあずかりました。8キロばかりあるのですが、彼らは少しも遠いとは思いませんでした。

浦上を襲う天災

 キリシタンたちが浦上に帰ってきたとき、浦上の地は荒れ果てていました。浦上四番崩れから帰ってきた人の中で、原子爆弾が落とされた後も生き残った老人が10人ばかりいましたが、原子野に翌年雑草が一面に茂ったのを見て、流罪から帰ったときによく似ていると言いました。
 彼らには、本当に何もなかったのです。あばら屋に住みつつ、港に行って皿のかけらを拾い、それで荒れ果てた畑を耕しました。近くの村に日雇いに出て、芋やキュウリの苗をもらいながら、働き始めました。
 こうして一年が過ぎ、やっと畑からもいくばくかの実りが収穫され、生活もようやく一息つき、落ち着いたと思ったところへ、疫病や天災が折り重なって浦上を襲ったのです。
 キリシタンたちが浦上に帰ってきた翌年の1874年夏、まず赤痢が流行します。そこへ追い打ちをかけるように8月21日、台風が来襲し、長崎は大被害を受けます。前年建てたばかりの浦上のバラック長屋は総倒れとなり、昔からあった家も含めて全戸数の半分は倒壊しました。一年間かけて辛苦の中で育てた農作物は、風に吹きちぎられ、収穫は皆無となりました。米価は暴騰し、食べ物にも困った浦上農民に、赤痢はますます拡がりました。そして浦上だけでも210名の患者が出ました。
 しかしこの悪条件の中で、赤痢という恐ろしい疫病を210名の患者でくいとめ、8名の死者にとどめたのは、ド・ロ神父と彼を助けた岩永マキら篤志看護婦の献身があったからです。

ド・ロ神父と篤志看護婦

 浦上村民の窮状を見たド・ロ神父は、毎朝4キロあまりの道を薬箱を下げて大浦から浦上に通い、病人の診療投薬に従事しながら、予防措置を教えて回りました。ド・ロ神父はただ脈をとり、薬を与えるだけではなく、患者の一人一人に神の言葉を語って慰め励ましたのです。
 この救護活動を見て心を動かされ、すぐにその案内と手伝い、患者の身の回りの世話を申し出たのが岩永マキでした。マキが動いたのを見ると、他にも守山マツ、片岡ワイ、深堀ワサという女性たちがともに立ち上がりました。彼女たちはみな、「旅」の中で迫害を受け、拷問にかけられて辛酸をなめてきた人たちでした。篤志看護婦となったこの4人の娘たちは、神父から看護法を教えてもらい、恐ろしい伝染病がはやっている町々村々を回り、大勢の人を助けました。
 ド・ロ神父は毎夜、大浦天主堂に戻りました。マキたちは家に帰ると家族に伝染させる心配があったので、どこかに合宿することにしました。そのとき高木仙右衛門が自分の小屋を提供しました。そこで4人は共同生活を始めました。
 夜遅く合宿しているこの部屋に帰ってきても、そこにはござと板の上に敷いた布団が1枚あるばかりでした。食器は茶碗がたった一つ、何か飲めるものを作って、その茶碗で娘たちは回し飲みしました。そして心を合わせて一心に祈ったのです。神父は娘たちに医学を教えただけではなく、祈りを教え、聖書の御言葉を教えることにも力を入れました。こうしてしだいに修道会の生活に近づいていきました。

孤児のための働き

 赤痢が下火になった頃、台風が襲い、大暴風が浦上のバラックを吹き飛ばしていきました。それが片づいたと思ったら、今度は港の入り口の島々(蔭の尾島)に天然痘がはやりました。病気を恐れて家族の者でさえ、患者を見捨てて逃げるほどでした。村にも町にも、親を疫病で奪われた孤児たちの姿がちらほら見えました。
 天然痘の看護も収まって、浦上に帰ってきたマキの腕の中にひとりの赤ん坊が抱かれていました。名はタケといいます。天然痘で両親が死んだ孤児でした。それまで蔭の尾島にあった「孤児院」が閉鎖されたので連れてきたのです。孤児はタケだけではありませんでした。当時、日本では各地で捨て子が多くいました。長崎でも相次ぐ災難で孤児や捨て子は次々に出ていました。
 守山マツは津和野に流されていたとき、殉教していった弟の裕次郎が臨終するときに言い残していった言葉を忘れたことはありませんでした。裕次郎は姉のマツに手当をしてもらいながら、兄の勘三郎の手を握って最後にこう言って天に帰っていったのです。
「おら、もうじき天主さまから召される如ある。兄と姉は生きながらえて浦上に帰れる如思われるばい。そのときにはキリシタン法度の高札は取られ、大声で祈りができるにちがいなか。浦上に帰れたら、ひとりは結婚してその子のひとりば神父さまにしてくれるやろ。やっぱり教理をよう知っとらんと、信仰も弱かけん。子供ば泣かせなさんな。子供ばかわいがってくれよ・・・・・・」
「子供を泣かすな」と言った弟の言葉を思い起こしながら、マツはマキや他の娘たちと相談して、孤児を育てることにしました。マキやマツたちは孤児を養うことが天職と考えました。ド・ロ神父もこのことを聞くと心の底から大喜びして、フランスでの孤児院のやり方にまねて具体的にいろいろと教え、経済的な助けもしました。
 マキたちの共同生活は初めからただの休憩所ではありませんでしたが、こうしてやがて「十字会」と名づけられて準修道会となります。

試練を用いる主

 250年にもおよぶ弾圧と迫害の後にやっと6年間の流配から解放されて信仰の自由を得たと思ったとたん、赤痢、台風、天然痘という人間的に見れば悲惨と思えることの連続の中で、彼女たちは、神を呪ったり恨んだりするのではなく、もちろん運命だと言ってあきらめるのでもなく、むしろその中で神が用意されていた最善の道を見出していったのです。
 愛である方、主イエスへの彼女たちの持っていた信頼、この信仰が祈りとともに働いて、多くの痛んでいた小さな者たち(孤児や捨て子)を助ける主の救いの手として働く道へと導かれていくのです。
 私たちの人生の中にもいろいろな試練が許されます。しかし試練が私たちを主から離すのではないということを、浦上のキリシタンの歴史を見るときに思わされます。むしろ試練は私たちの信仰を練り清めて、私たちに主が用意されている道へと私たちを導いてくれるのです。
 主は愛の方、そして最善以外私たちに決してなさらないお方だからです。

悲しみを喜びに

 旅から帰ってきた浦上のキリシタンたちには、切なる願いがありました。それは神の家、つまり聖堂を建てることでした。彼らはミサのために毎日曜日ごとに大浦天主堂まで歩いて通わねばならなかったのです。彼らはそれでもうれしくてたまりませんでした。けれどもその日の糧を得るにも汲々としていた信者たちにとって、それは時間的にも大きな困難でした。
 そこで浦上に仮聖堂を建てる計画を作り、まずは適当な場所を探しました。そこで瓦ぶき平家で、200名ぐらい収容できる離れ座敷を仮聖堂にあてました。しばらくはここに大浦からポアリエ神父が通っていましたが、聖務が忙しくなると、ここに住み込んで奉仕されました。
 そして1880年、高谷庄屋屋敷跡を買い取って補修し、仮聖堂としました。
 この高谷家は、もともと浦上の庄屋で、キリシタンの召し捕りや吟味のあるごとに自ら手伝い、毎年正月には浦上の人々を召し出して絵踏みを実行していた家です。しかし、キリシタン流配の処分を出した後、当主は、死亡し、長男は懲戒のため高島炭坑に送られているとき、ガス爆発により死亡しています。その結果、未亡人はわずか12歳の病児を抱えて生計を立てるのに困り、ついに敷地から邸宅にいたるまでの広大な土地と建物を残らず競売に出して村を立ち退くことになったのです。浦上に信者は何とかしてこの敷地を手に入れようとして祈り、そしてついにわずか1600円で買い取ったのです。(当時は米10キロ44銭)。
 かつて絵踏みをさせらた場所で、彼らはミサを行いました。主は彼らの涙を覚えておられ、迫害と殉教という火の試練を通した後に、彼らの悲しみを喜びにかえられたのです。主は真実なお方です。そして主は正しく裁いてくださるお方です。

 浦上のキリシタンたちの歴史を見てきましたが、そこには主を愛して従う者に対する主の真実を見ることができます。彼らは待たされました。しかし主は遅れることなく、ご自身の約束のときに、彼らを迫害から救い、助け出されました。主は決して裏切らないお方、約束を守られるお方、真実なお方です。

*今年の2月号から6回にわたって、浦上のキリシタンたちについて書いてきましたが、今回で終わりにします。ここまで浦上のキリシタンのことを書くにあたって、『神の家族四百年』(浦上小教区編、浦上カトリック教会)、『乙女峠』(永井隆著、中央出版社)、『長崎のキリシタン』(片岡弥吉著、聖母の騎士社)、『日本キリシタン殉教史』(片岡弥吉著、時事通信社)等の書物を参考にさせていただきました。誌面を借りて心より感謝いたします。
殉教者のためのお墓 イザヤ木原真(主の十字架クリスチャンセンター長崎教会牧師)
江戸幕府が続いた250年にわたり、鎖国とともに禁じられたキリスト教。禁教が打ち破られ、キリストを信仰する自由が得られるためには、年号が明治に変わるだけではなく、浦上のキリシタンたちの6年にわたる残酷な迫害の「旅」と殉教が必要でした。
 そしてそれはあのとき、つまり浦上の指導者たちが最初に捕らえられたとき、全員が転んだにもかかわらず、ただひとりキリストを否まず、信仰を守り通した高木仙右衛門の従順があったからでした。もしあのとき彼も転んでいたなら,きっとその後の迫害や「一村総流罪」となる「旅」はなかったでしょう。そしてキリスト教はしばらくの間、相変わらず禁じられ続けていたにちがいありません。ですから少し大げさな言い方が許されるなら、高木仙右衛門が日本のキリストへの信仰の自由の扉を開いたとも言えるのです。
 高木仙右衛門のお墓が、長崎市の石神町にあります。ここには、四番崩れで殉教された方も葬られていると聞きました。また1945年8月9日の原爆で亡くなった多くの浦上の信者たちが眠っています。お墓に刻まれた命日を見ると、昭和20年(1945年)8月9日からしばらくの間の日付がたくさんあります。原爆ですぐ亡くなった方も、それからしばらく苦しんだあと亡くなった方もたくさんいたようです。
 原爆は、浦上教会の教区の真上で爆発しました。そのとき浦上教会では祈りが捧げられていたのです。もちろんその人たちは天に召されていきました。そのような方々がたくさん高木仙右衛門とともに葬られているこのお墓に実は、私の教会のお墓もあります。
 今回はここに私たちの群のお墓が与えられたいきさつについて証しを書きたいと思います。このお墓は、私たちの教会に与えられた殉教の示しと深い関わりがあるからです。

長崎への導き

 私が属しているのは、主の十字架クリスチャンセンターという教会です。この教会は1984年4月1日に東京の国分寺市でスタートしました。主がお立てになったふたりの牧師は、毎日、本当に主の御声に聞き従えるようにと、祈り、主の御心だけが教会でなされるようにと何時間も祈っていました。そしてもっとはっきりと主の御心がわかるようにと願っていたのです。数ヶ月の待ち望みの後に、主は預言の働きを教会に始められました。その中で長崎に行きなさい。26聖人の足跡をたどりなさい。そこで語り示すことがある、と語ってこられてのです。吟味の後、長崎への祈り込みの派遣が始まりました。5人から7人ぐらいのチームが数回にわたって長崎に祈るために遣わされました。それはその後の海外宣教のための備えになりました。またときにはひとりでも長崎に祈りに来るようになったのです。私も何度か祈りに来ました。
 そのような中で私の属している教会の牧師であったパウロ秋元牧師(「預言」連載中)が1987年の秋に長崎に祈りに来られました。朝、西坂の丘で祈られた後、十字架山に祈りに行き、その帰り、表通りではなく裏の道から帰ってきたときに、お墓の中へ迷い込まれました。そのお墓は、日本では珍しく、十字架がいっぱい建っていました。カトリックの人たちのお墓だったからです。お墓にある十字架を見ながら、とても感動を覚えて歩いていると、墓地がふたつ並んで空いており、墓地を売るための看板がそこに立ててありました。そのとき主は、秋元牧師に語りかけられたのです。「ここにお墓を与える。」と彼は驚きました。
 その頃海外宣教を主は預言を通して語っておられましたが、それとともに殉教に関しても預言などを通して主は私たちの教会に示しておられたからです。もしかすると、殉教者たちのために主はお墓を用意されるのだろうか・・・・・・。
 思い巡らしつつ東京に戻り、長崎で見たお墓のことを、ある小さな婦人の集会で分かち合われました。その集会に出席していたひとりの婦人がしばらくして、長崎に祈りに来られたとき、このお墓を見に来られました。お話を聞いたときの印象が心にとても深く残っていたからです。そしてまだ立っていた看板を見て、そのお墓屋さんに電話をされたのです。そのご婦人の敬虔な話しぶりと、あまりの熱心さに、お墓屋さんは心が動かされました。それでそのあと、何人かの方が、お墓を買いたいと言ってこられても、このご婦人のことが気になって、売ることができず、婦人を通して「本当にお墓を買われますか」と教会に電話をして来られました。そこで秋元牧師は祈り、献金の要請を週報に載せてみました。

殉教のメッセージ

 翌1988年の年頭に、奥山実宣教師が、私たちの教会のその年の最初の日曜主日礼拝に奉仕に来てくださいました。そのとき語られたのが、ヨハネ12章24節の「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かに実を結びます」という御言葉でした。
 海外宣教に関して、力強く語られました。時間が予定より大幅に過ぎてしまいました。だれひとり立つ者もなく、本当に恵まれたときでした。説教の最後に、殉教のことにも触れられ、海外に宣教に行くときには実際に死ぬこともある。殉教することもある。しかし殉教者は教会の種、リバイバルの種となる、ということを語られたのです。
 この説教を聞きながら、もしかするとお墓が与えられるかもしれないと思いつつ、秋元牧師は再び、長崎に祈りに来られました。そして売りに出されている墓地の所に立って祈りながら、主に聞きました。
「もしここを主が与えてくださるなら、何かしるしを見せてください」
 そう言って目を開けてみると、なんと真っ正面のお墓に「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一粒のまま残る。しかし死ねば多くの実を結ぶ。ヨハネ12の24」と御言葉が書かれていたのです。周りのお墓を見回してもどこにもそんな御言葉は書かれていませんでした。永遠の安きをとか、私は復活であり命であるなどと書かれているだけです。
 これは与えられるかもしれないと思いつつ秋元牧師が東京に戻ると、約束献金がきていました。そして一月の末にお墓のための献金が全額与えられたのです。お墓の契約は、日本26聖人の殉教した2月5日になりました。
 これはわざとそうしたのではなく、ちょうど献金が与えられて、それから契約をしに行くと、この日になったのでした。
 私たちは何か深い摂理を感じました。確かに殉教者が私たちの群からも起こってくるのではないかという確信に近いものが与えられてきました。
 しかし契約をしたもののお墓はなかなかできませんでした。お墓屋さんが「すぐ造ります」と言ったにもかかわらず、すぐにはできなかったのです。私たちも催促して余り早くできても、何か殉教が早くおこるような気がして、(もちろんそんなことはないのですが・・・)催促しませんでした。
 その年の5月に私たち夫婦は長崎に遣わされてきました。ときどきお墓を見に行きましたが、やはりそこには、いつも全く何も造られてはいなかったのです。そして一年半がたちました。

ジャッキーの殉教とお墓の完成

 1989年の夏に秋元牧師をリーダーとして、フィリピンに私たちの教会から、チームが遣わされていきました。
 このチームがフィリピンで奉仕をしている途中に、殉教事件が起こりました。現地の教会が囚人伝道していた刑務所で、オーストラリアから来ていたジャッキー・ハミル宣教師をはじめとして、現地の教会の人々と牧師が人質として囚人たちに捕らえられたのです。
 3日目に、しびれを切らした囚人たちは人質であるクリスチャンたちを盾にして強行突破をはかりました。そして阻止しようとした軍と撃ち合いになり、ジャッキー宣教師ら5人のクリスチャンたちが、その撃ち合いの中で流れ弾に当たって殉教しました。このときのことは、「雲の間にある虹」1月号で秋元牧師ご自身が書いておられるので、それをご覧ください。
 この派遣から帰ってくると、お墓屋さんから、お中元が届いていました。きっとすぐに造らないで、ずいぶんたってからお墓を造ったので、連絡しにくくて、お中元を贈ってきたのでしょう。秋元牧師から、すぐ電話がありました。
「木原君、お墓屋さんがお中元を贈ってきたので、ちょっとお墓を見てきてくれない。できてるかもしれないから・・・・・・」
 私はすぐにお墓に行ってみました。するとお墓ができていたのです。十字架と御言葉が書かれているすばらしいお墓でした。
 ジャッキーたちが殉教したことなどまったく知らないお墓屋さんが、ちょうどジャッキーが殉教したときにお墓を造っていたのです。何か不思議な主の導きを感じずにはいられませんでした。
 私たちの教会では、その年の終わりに、お墓の建碑式をしました。もうすでに予定が入っていたので、12月にならないと時間がとれなかったのです。12月28日に東京や長崎などから40人ぐらいの人々が集まりました。この日はカトリック教会では子供殉教記念日なのだそうです。この日はちょうど秋元牧師の長男のヨハネ君の3歳の誕生日でもありました。

終わりの時と殉教

 かつて殉教のことが預言を通して語られたとき、私たちは何か極端なことのように思えました。しかし26聖人の歩みを通して十字架を負うことを主から教えられ、さらにこのようにして、日本のキリスト信仰の自由の扉を開いた高木仙右衛門と同じ敷地にお墓が与えられ、しかも、このような形でお墓が与えられたことを考えてみると、確かに主が殉教に対して備えをしなさいと語っていると私は思わざるをえないのです。実際、海外宣教に出ていってみると、危険や死とは常に背中合わせなのに気がつきます。いつどこでだれが殉教してもおかしくはないのです。
 このお墓には、次のような御言葉が刻まれています。
「これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していたのです」(ヘブル11章13節)
 これはお墓を造るときに祈って、主に示された御言葉でした。それを墓石に刻んであるのです。ですからこの御言葉には主からのメッセージがあると、私は信じています。
 この終わりの時に主がこの国、日本に大いなるリバイバルをなしてくださるという約束を信じて、主に従って喜んで殉教していく者が出てくるかもしれません。
 彼らはこの地上ではリバイバルを見ないかもしれませんが、天でともに喜ぶことでしょう。彼らはこの地上では旅人であり、寄留者であることを告白して、天の故郷にあこがれていると書いてあるとおりです。
 そしてリバイバルの後に再びこの日本にもかつてのような激しい迫害が来ないとはだれも言えないのです。
 私たちはいまは平和ぼけしていると言われている日本で宣教しています。けれどもこの国の宣教史を見るとき、決してキリスト教に寛容な国ではなかったことは明らかです。また海外に目を転じるなら、いまも殉教は起こり続けているのです。いままでなかったほどに・・・・・・。
 私は日本人のひとりの働き人として、目を覚まさなければならない時が来ていると思えてしかたありません。真に主を愛して、福音とキリストのためにたとえ死ぬことがあっても、喜んでリバイバルを信じながら天に帰っていきたいという信仰を主に与えていただきたいと願う者です。主はそのような者たちに、ご自身の働きを現してくださるのではないでしょうか。
   


・Copyright 1999 The Lord's Cross Christian Center Nagasaki Church