日本二十六聖人を通して神が教えて下さったこと
1. 喜びにあふれていたこと |
2. 天国の確信と報い |
3. 十字架上で賛美すること |
4. 家族の中で育まれた信仰 |
5. 赦しの力 |
6. 悔い改めを大切にする心 |
7. 福音を語り続けること |
8. 人々の魂に対する情熱 |
9. 神にゆだねること |
10. 選択の時、神を選び切る力 |
11. 強いられた十字架の祝福 |
12. ひとつになれる素晴らしさ |
11. 強いられた十字架の祝福
最初の殉教者ーフィリッペ
26人が長崎の西坂で十字架にかけられた時、
最初に処刑され殉教したのは、フェリペでした。
フェリペのつけられていた十字架の支え木が下に寄り過ぎていて、
彼の全体重が首の鉄枷にかかり、声も出せず窒息しそうになつていました。
それを見た半三郎が、最初に彼を殺すように合図をしたのです。
フェリペは若干24歳のメキシコ人でした。
父と母はイスパニア(スペイン)人でしたが、メキシコに移住してきたのです。
彼は若き青春時代には放縦な生活をしていましたが、
神様の責める声を聞き、悔い改めて、フランシスコ会修練会に入会し献身します。
しかし結局は辞めてしまい、元の生活に戻ってしまいます。
放蕩していた彼のことを心配した両親(特にお母さん)は、
彼を更生させるために、フィリピンに彼を送り商売をさせました。
商売は成功しましたが、
彼はその時、もう一度神の声を聞き、
献身してマニラのサン・フランシスコ修道会の門を叩きます。
しかし、修道会の院長は、
彼が一度、修道会をやめたことを知っており、
すぐには承諾して入会させてくれませんでした。
修道院長は主に祈りました。
すると主は、修道院長に語られたのです。
「彼を受け入れてあげなさい。」と。
フィリペは神に受け入れられ、
フィリピンのマニラにあるサン・フランシスコ修道会に入ることができました。
それから2年経った時、
修道院長はフェリペに司祭になるために、再びメキシコに戻るようにと言いました。
何とたった2年で(以前に修練会に、いはしましたが・・)、
フィリペは司祭(神父)になることになったのです。
フィリペは司祭叙階のために、再びメキシコに戻ることになりました。
司祭叙階とは、司祭になるための「任命按手式」のようなものです。
フェリペは自分と同じ名前のサン・フェリペ号に乗りフィリピンに向かいます。
ところが、ガレオン船であったそのサン・フェリペ号が
メキシコに向かう途中で難船し、漂着したのが、日本の土佐沖の桂浜でした。
彼は、しばらくすればまたすぐ出航できると思っていました。
ところが、彼らは捕らえられ京都に連れてこられ、
フェリペは殉教者のリストの中にその名が刻まれたのでした。
彼にとって、日本という国は全く知らない国だったことでしょう。
こうして漂着するまで、全く関係なかった国だったと思います。
ところが船はメキシコに行かず、日本に漂着し、彼は捕らえられ殉教者の中に加えられたのです。
メキシコに行って、両親の見ている前で、
特に母親の前で、神父に叙階されることを楽しみにしていたにも関わらず、
彼は日本で殉教者の中に加えられたのです。
彼が西坂の丘で殉教した時、まだ日本に来て4ヶ月しか経っていませんでした。
彼は最初戸惑い、神様の導きと御心がわからなかったようです。
しかし京都から長崎まで殉教者たちと共に歩く中で、
彼の心は変えられていきました。
彼はこう言っています。
「本来司祭になる資格さえなかったこの私を、神様はこの国の殉教者として選ばれました。
この殉教の恵みに預かることができたのは、ただただ主イエス・キリストの深い恵みによるものです。
サン・フェリペ号が難船したのは、
この私を救い、この国の殉教者として選ばれる恵みの中に入れるために主が許されたのです。」と。
日本に一番最後に来た者が一番最初の殉教者になりました。
それは彼自身の選びではなく、主の選びでした。
フェリペには選択の余地はなかったのです。
強いられた十字架、
フェリペにとつて、それはまさに選ぶことのできない強いられた十字架でした。
しかし、その強いられた十字架を通して、
かつて放蕩し放縦な生活話していた落ちこぼれだったフェリペが、
今や主イエス・キリストを命をかけて愛する「殉教者」として選ばれたのです。
実はフェリペの母が、司祭叙階式の時に着る純白の正装を自分で作り待つていたと言われています。
放蕩息子が神に立ち返り司祭になるのを楽しみにしていたことでしょう。
お母さんは、この地上ではその姿を見ることはできませんでしたが、
今、天で、フェリペとともに、主を賛美しながら、
この国のリバイバルのために祈っていることでしょう。